第8章 筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞ積りて 淵となりぬる
「今年の実りは良さそうだな。」
「そんなことまで解るのか?」
「うん。山を歩けば獣の事ならず草木の事も分かる。今年は雨と晴れが半々ほどで多からず少なからず。」
「じゃぁ、今年は鹿が肥えるな。来年はいい角が取れそうだ。」
「それがどうにも解らん。なぜ人は鹿の角を欲するのか。」
「そりゃ初めに食おうと思った先人に聞いてくれ。」
髪が乾き残す所、耳と尾だ。
しかしこちらは手を出さない。
ちょっとでも毛の流れを乱そうものなら、噛みつかんばかりに怒る。
あとは、背景に夜を置いて妖狐の横顔を眺める。
こんな光景を眺めながら一献傾けるのも悪かないだろう。
いいな。すごくいい。
後三年もすりゃ楽しめる。
「狐っていやぁ肉も食うだろ?鹿は食わないのか?」
「体躯の違いがお前の眼には見えんのか?狐は失敗する狩りは望まない。そもそも、毎度肉を欲するわけではないからな。」
「まぁ、そうだよな。鹿があんだけ落ち着いてお前と接してるならそうだろうな。」
「私ら狐は耳がいい。土の中に居る土竜も見つけ出すほどにな。虫も食うし、柔らかな果実も食う。堅い木の実は歯に合わん。」
「冬の山でよ、狐の足跡の先に細長い穴があいてる時があんだけど、あれ、なんだ?」
「ふむ。たぶんそれは、狩りの跡じゃろう。」
「狩り?」
「雪の下に眠る鼠を捕える。」
「へぇ。そんな音まで聞こえるのか。」
「あぁ。お前の心の内の声がハッキリと聞こえるくらいにはな。」
「はいはい。さすがは天狐だ。」
「うむ。」
これ見よがしに凛々しい狐耳をピンと立てる。
話をしている間も天狐の手はいそいそと動き回り、ようやく満足いくようになったらしい。
櫛を置き、いかにも月が好きそうな狐のように、跳ねる狐に似た光る三日月を見上げる。
「いきものは貪欲じゃな。」
誰に言った訳じゃないだろう。
俺ではない誰かに向けられたその言葉が、天狐の笑顔の訳なんだろう。
親父とおふくろはいつの間にか床についていたよう。
夜もそろそろ深くなる。
明日もまた、いつ開催するか分からない中忍試験の事で頭を働かせなければならない。
「天狐、そろそろ寝よう。せっかく温まったのに冷えちまうぞ。」
「そうだな。」
ふっくらと乾いた尾を穏やかに揺らしながら、今夜もまた目を閉じる。
(水澄む季節)