第8章 筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞ積りて 淵となりぬる
「テマリの櫛、この間返しに行った。もう家にはない。」
「それ、言う事か?」
「あの時の事謝るつもりはねぇよ。」
「なおさらだ。」
「知らなかったからな。」
半ば殺気を向けられているのではないかと思うほどの視線。
何の術にもかかっていないはずなのに足が動かない。
気押されていると言うのか。
どうするべきかと迷っていると、シカマルが両の手を胸の前で組み、ボフン。と変化した。
私と同じ黒い狐に。それも、完璧に。
「何の真似だ!私が人に成れないからと馬鹿にしに来たか!」
しばらくそのままで固まっていたかと思ったら、すぐにシカマルに戻った。
「欠点が二つある。」
「は?」
「喋る事が出来ない。あと、動きがぎこちなくて偽物だとすぐばれる。」
「なんだ。自分にも欠点があると言いたげだな。」
「あぁ。俺じゃ狐にはなれない。だから、お前が人に成って同じ目線に立ってくれると嬉しい。」
「何の事だ。」
「めんどくせぇなもう。良いから人に成れって言ってんの!」
「その言いぐさ!」
「ほら!早く。」
何なんだ一体。
仕方なしに人の型を取ると、シカマルは足元に置いた紙袋を物ともせず踏みつけて、私に近づきそのまま私を抱きしめた。
「俺はめんどくせぇことと回りくどい事が嫌いだ。」
「おま、ふがし」
「黙れ。二度はいわねぇ。俺もお前が好きだ。」
「ふがっ」
今のは息が漏れただけだ。
顔がシカマルの胸に押しつけられたから。
煩く耳に聞こえるのはどくんどくんと心臓の音。
早鐘を打つのは私の心臓か、それともシカマルの心臓か。
「人に紛れるには人に成れ。近道は俺の女に成る事だ。」
「ひ、人の雄と添う気は」
「雄じゃねぇ男だ。で、お前は女。雌狐じゃない。」
「訳の変わらない事を!」
「人は年中発情期だって、お前言ったよな。あぁそうだ。俺たち人はな狐と違ってワンシーズンで、はいさいならは出来ねぇんだわ。」
「わんしーずん?」
「一年な。」
狐に戻ってこの場を逃げようとも思ったが、例によって体が動かない。
奈良家秘伝の影の術だ。