第6章 行く水に 数書くよりも はかなきは 思はぬ人を 思ふなりけり
「ただいま。」
「おかえり。」
家に帰ると、いつもやかましいぐらいにでかい声を出すおふくろの気配がなかった。
親父も家にはいないようで、茶の間には人間のまま忍法の巻物に目を通している天狐だけが居た。
「二人なら山へ行った。鹿子の病を見に行っておる。夕食は勝手に食えと言われた。」
「お前は行かなくていいのか?」
「私は別に鹿の王ではないからな。鹿に気に病むのは鹿でよい。」
連れないな。と思いながら、今朝と変わらない雰囲気の天狐がすこし気に掛かった。
人間になればその機嫌の悪さが顕著にわかる。
不機嫌に皺のよる眉間、下がった口角、足音。
めんどくせぇ。
着替えるべく部屋に上がり、脱ぎ捨てた忍服のポケットから滑り出て来たさっきのポチ袋。
女の機嫌を取るには贈り物がいい。と誰かが漏らしていた気がする。
アスマだったか、親父だったか。
俺はそれを手に茶の間の不機嫌な天狐へ向かう。
「天狐。これ、やるよ。」
「ん?」
受け取るものは素直に受け取るんだな。と何となく子供っぽさを感じた。
びりびりと上品とは言い難く袋を開け、出て来た櫛を手にまた少し棘のある視線を俺によこす天狐。
「櫛、いらなかったか?」
「いや、ありがとう。」
天狐は手に持った櫛を何故か怖々と鼻に寄せる。
匂いを確認して安全かどうかを判断する様子は獣そのもの。
何かに満足したように頷き、たどたどしい手つきで髪に櫛を通す。
何度か試みるが、人間にはない獣の耳が邪魔をするようで、上手い事するりと通らないらしい。