第2章 痛がりな僕らと声なき恋(天童覚)
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しとと、雨が落ちる。
あいにくの天気だ。
ほぼ休みなく働いた日の終わりの、凍える夜。疲れた身体を引きずって歩く帰路は、どこもかしこも水たまりだらけだった。
帰ったら熱いシャワーを浴びてすぐに寝よう。冷えきった指先に息を吹きかけて、街灯に照らされた道を行く。
郵便局のマークが見えてくれば、その向かいにあるのは愛しの自宅マンションだ。
ああ、やっと休める。
そう思うだけで崩れ落ちそうになるくらいには疲れていた。だからなのかもしれない。無人のエントランスに、ぽつんと人影。ここらへんじゃ有名な進学校の名前が縫いとられたジャージ。
私は、幻覚でも見ているのだろうか。
コツ、ン
防水加工のブーツで、躊躇いがちに大理石の床を鳴らした。俯いていた赤が顔をあげる。
「 」
彼が紡いだのは空白だったが、けれどたしかに、その唇はこう動いていた。
朱花──
私を、呼んでいたのだ。
私がなにかを言うよりも早く、彼が立ち上がる。あっという間に詰められてしまう距離。閉じたばかりの傘から、ポタと、水滴が落ちていく。
「…………っ」
気づけば抱きしめられていた。
きつく、きつく。
痛いくらいに。
幻覚なんかじゃない。
実物だ。
本物の、おどけてないほうの、彼。
鼻腔に滑りこんでくる懐かしい香り。制汗剤と、埃っぽさと。この匂い、覚えてる。胸がぎゅううと締めつけられるような。懐かしの、過ぎし日の。
──青春の、匂いがする。