• テキストサイズ

(HQ) 亡青春に捧げるエチュード

第2章  痛がりな僕らと声なき恋(天童覚)



 *


 しとと、雨が落ちる。

 あいにくの天気だ。
 ほぼ休みなく働いた日の終わりの、凍える夜。疲れた身体を引きずって歩く帰路は、どこもかしこも水たまりだらけだった。

 帰ったら熱いシャワーを浴びてすぐに寝よう。冷えきった指先に息を吹きかけて、街灯に照らされた道を行く。

 郵便局のマークが見えてくれば、その向かいにあるのは愛しの自宅マンションだ。

 ああ、やっと休める。

 そう思うだけで崩れ落ちそうになるくらいには疲れていた。だからなのかもしれない。無人のエントランスに、ぽつんと人影。ここらへんじゃ有名な進学校の名前が縫いとられたジャージ。

 私は、幻覚でも見ているのだろうか。




 コツ、ン




 防水加工のブーツで、躊躇いがちに大理石の床を鳴らした。俯いていた赤が顔をあげる。

「   」
 彼が紡いだのは空白だったが、けれどたしかに、その唇はこう動いていた。


 朱花──
 私を、呼んでいたのだ。


 私がなにかを言うよりも早く、彼が立ち上がる。あっという間に詰められてしまう距離。閉じたばかりの傘から、ポタと、水滴が落ちていく。



「…………っ」



 気づけば抱きしめられていた。

 きつく、きつく。
 痛いくらいに。

 幻覚なんかじゃない。

 実物だ。
 本物の、おどけてないほうの、彼。

 鼻腔に滑りこんでくる懐かしい香り。制汗剤と、埃っぽさと。この匂い、覚えてる。胸がぎゅううと締めつけられるような。懐かしの、過ぎし日の。



 ──青春の、匂いがする。



/ 18ページ  
スマホ、携帯も対応しています
当サイトの夢小説は、お手元のスマートフォンや携帯電話でも読むことが可能です。
アドレスはそのまま

http://dream-novel.jp

スマホ、携帯も対応しています!QRコード

©dream-novel.jp