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第7章 ふたつ 彌額爾(ミカエル)の語り ー人の望みの歓びよー



暑い日が続く。

ここの夏は他所に較べれば涼しいものだが、今年は何故か馬鹿に暑い。トルペ(チューリップ)はこの国の特産だが、盛りを過ぎて球根を掘り起こす作業の始まるこの季節、花に携わる人間はさぞかし難儀している事だろう。

僕は表に居なくてすむ今の境遇に胸をなで下ろしていた。
こんな暑い日にうっかり水溜りに淀んでいたら、あっという間に煮え立って蒸発して、あっという間にまた雨に取り込まれて水溜り、また煮え立って水溜りの繰り返しに巻き込まれかねない。
時節が落ち着くまで忙しなく天地を行き来するのも、煮え立ってのぼせるのも楽しい事じゃない。

エンゲルの尖った顎から滴る汗が使い込んで磨き込まれた居間の卓に黒い染みを落とし、開け放った窓から強烈な草いきれがむっとする夏の蒸気と一緒に容赦なく押し寄せて来る。

青葉、青草、樹の幹、湖水の香り、土の匂い。

そしてローゼ(薔薇)、ダーリエ(天竺牡丹)、ゲラーニエ(天竺葵)、イーリス(菖蒲)、ヒアツィンテ(風信子)、入れ代わり立ち代わり、もしくは夏中薫る様々なブルーメ(花)。

その中でも一際匂い立っているのが、百合。リーリエだ。

エンゲルは窓の表、細やかな庭にヴァイスリーリエ(白百合)を植えていた。多分リーリエを驚かせるつもりで準備していたのだろう。以前からあるものならあのリーリエが手紙で庭のリーリエに触れない訳がない。豊かな芳香に胸が痛んだ。

昼過ぎ、エンゲルが粗末な昼餉をすませた頃、ベアヒェンから小さな靴が届いた。手紙は添えられてなかった。

柔らかそうで部屋履きみたいな赤いフェルト地の靴に、優しい藤色のイーリスがかがられている。

女の子が産まれたんだ。
すぐにわかった。
イーリスみたいな女の子がやって来た。

誰もがやって来たところから。誰もがまた還るところから。

僕は鳩のミカエルから飛び降りてその嘴にキスしてイーリスを祝福した。鳩のミカエルは雨垂れのミカエルをきょとんと見返すばかりで張り合いのない事夥しかったが、僕は全然お構いなしで"クルンパコイス(木の靴)"を踊った。お相手のダーメ(淑女)はいなかったけれど、イーリスと踊っているつもりで楽しく踊った。

一頻り踊ってから、これが男女の仲直りのダンスだった事を思い出して落ち込んだ。
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