第7章 ふたつ 彌額爾(ミカエル)の語り ー人の望みの歓びよー
エンゲルはとても敏感な男だ。欠けた感覚を補う為に、他の感覚をびっくりするくらい研ぎ澄まして生きている。
雨や雪、風と木擦れ、家鳴りや来客の足音、本来ひとつの器官で察知し得るものを彼は体全部で受け止める。
空気の震えは彼にとって音以上のもの。ただ音ですむ筈のものが彼の全身を震わせ、捉える。
不自由かも知れない。けれどその姿は真摯で敬虔で、本当に一生懸命、一生懸命なんだ。
生きている事が祈る事に通じている様に見える。
気温は日に日に上がって、百合の季節がどんどん近付いて来た。
リーリエの手紙は相変わらず引きも切らずエンゲルの机の上を賑やかせて僕とミカエルの仕事を増やしたけれど、エンゲルの筆は止まった。
あの繊細な手は、絵も手紙も著さなくなった。
もし。
もし間もなくやって来る天使が、この世界の美しさを五感で享受出来ないとすれば、私はどうすればいいのだろう。
私は子供をもうけるべきではなかった。
誰とも結ばれるべきではなかった。
私は罪を犯したのではないか。
こう言ったエンゲルがカールに殴り倒されたのが一週間前。カールはエンゲルに今まで見たこともないようなよそよそしい目を向けて出て行った。
リーリエはお前には過ぎたゲシェンク(贈り物)だと言い捨てて。
今カールはリーリエの元へ向かっている。一度諦めた求愛の花束を抱えて、天使ごとリーリエを引き受ける事を伝える為に。
エンゲルは独り、頭を抱えて蹲ったままだ。
それも祈りなのか?エンゲル?
でもそれは神に届きはしない。
神はね、エンゲル。滅多と人を助けはしないが、少なくとも"自ら助くるものを助く"。
今の君じゃ、雨垂れから見たって話にならない。
ほら、顔を上げろってば。僕を見ろよ。ミカエルを見ろ。
天使は身近にもう一粒いるんだぞ。
多分僕も祈って来たんだ。いつの間にか、エンゲルの傍らで。
エンゲルが、リーリエが、新しくこの世界にやって来る天使が満ち足りますようにと。
何故だろう。僕はエンゲルとリーリエの耳の事を知った後も、彼らの天使に五感が揃ってあれとは思いつきもしなかった。
ただ三人が睦まじく寄り添う事、それだけを熱心に思い続けていた。心の丸く満ちた彼らを慈しみ給えと思い続けていた。
強く願い、思うのが祈りならば、僕はもうずっと彼らの為に祈って来た。