第4章 弥太郎河童
「逃げたかと思ったよ。よく顔を出したものだ」
水神の社は古くて何もないが、主が綺麗好き故にすうすうとよく風の通る清潔さで、仄かに爽やかな乳香が香っている。
乳香は社の香りではない。主の香りだ。忌々しい。
「私の嫁子をどこに隠した?差し詰め路六の巣か荒れ凪の下生えの中だろうな。この痴れ者が」
真っ白な御座布団に端座し、嫌味なくらい整った人型の顔に薄笑いを浮かべているのは、この辺りの水辺を統べる水神、無理だ。
弥太郎は厭な顔をして社の入り口に立ちぼうけた。
用はあるが頭を下げて入りたくはないし、かといって無理が招き入れてくれる気配もない。厭味ったらしくにやにやしているだけだ。
思ったより腹を立てているようには見えない。見えないが、腹の内はわからない。何しろ気紛れな神だから、何時何処へ何がどう転がるか、会う都度ひやひやする。
何でコイツの眷族なんだろうなぁ。コイツに仕えるくらいなら、弟神の道理に仕えた方がいくらマシだか知れやしねぇのに…
田の神の道理は兄神の無理と違い、穏やかでもののわかった青蛇だ。里の田畑を守り、里人から厚く祀られている。癖がなく徳高く、三百年前に娶った人の嫁と未だに睦まじく暮らしている。
有り体に言えば退屈な神だが、だからといって面白半分に無理についた自分が恨めしい。
苦々しい思いで弥太郎は渋々床に胡座をかき、手をついた。
「あんなガキを娶ろうなんざ焼きが回ったなぁ、無理」
形は礼をとったとしても、丁寧な物腰は弥太郎の何処を捻っても絞っても出て来ない。元からないのだもの、ない袖は振れない。
「人はあっという間に歳を食う。ほんの少し待てばアレもなかなかの女性になるだろうよ。お前もそう踏んで奪ったのだろう?欲深の川太郎」
にこやかに言う無理に、弥太郎の腹がぐぅっと迫り上がった。無理の紅い目は笑っていない。
弥太郎は生唾を呑み込むと、強いてぶっきらぼうな声をだした。
「旨そうだから拾ったんだ。それだけだ」
「ふむ。確かに旨そうだ。も少し年経れば更に旨そうになるだろう」
たっぷりした白絹の衣裳の懐に手を潜らせ、無理は弥太郎に頷いて見せた。
「しかしウヌは人を食わんだろう?尻コ玉は好んで食っておるようだが、人は食わない。なあ?」