第2章 並
かつんと岩に雁首を打ち付けて十市は煙管を仕舞った。立ち上がって沖を眺め、袖に手を潜らせる。
「お前がそれでいいと言うなら、もう行こうかと思うがよしか」
「是非もない。あっしが頼んだ事だもの」
「潔いな。凛々しい事よ」
「やかましい。舟を出せよ!」
「···あぁ、ところでな」
剣呑な声で怒鳴った並の顔を、十市が腰を屈めて覗き込んだ。海より尚黒い切れ上がった目が並を見据える。
「お前が持ち切れんかったものに、わしの欲しいものがあるんだが」
「知っとる。お前、昼間彦左と居ったろう」
即座に切り返した並に十市は笑った。
「目敏いな。そうじゃ。わしは彦左と居った」
「お前があっしの代わりに山に行けばいい!彦左はお前が好きなんじゃろ⁉でなくば山のもんがわざわざ舟など造るものかよ!」
「ほう。また悋気の虫が騒いだか?」
「知るか馬鹿!兎に角腹が立つんじゃ!」
「だとよ。仕様もない奴だが止めてみるか?」
十市が波の肩越しの暗がりに声をかけた。
振り返った暗がりから、がっしりした影が黃橙の明かりの輪に入って来た。
杉の葉と薪の燻べた匂いがする。
「止めて聞く並かいのう···」
呑気な低い声。いつも笑っているような細い目。
「彦左!」
そうと認めた瞬間、並は山の男の首ったまにしがみついていた。
今日一日の鼻が痛くなるような思いが、彦左の顔を見た途端何故かいちどきに溢れ出た。
「彦左の馬鹿が!馬鹿、馬鹿め!」
「お前、そんなにも馬鹿だったか?」
十市の問いに、並の頭を撫ぜた彦左が首を傾げる。
「いやぁ···どうかのう」
「やかましい!あっしが馬鹿と言ったら馬鹿なんじゃ!彦左は馬鹿じゃ!」
彦左にしがみついて顔を伏せた並が尚も言い募ると、十市は岩に座り直して彦左を見上げた。
「跳ね返りが悋気の火の玉になっておる。男冥利に尽きるの」
「心細うなったんじゃろ。落ち着けや、並」
彦左は穏やかに並を引き離すと、その泣き顔を見て頷いた。
「お前な、無理に山に来んでもいいんじゃぞ?」
「あ?」
思いがけない言葉に並がぽかんと半口を開ける。彦左は首の後ろを擦りながら、ほろ苦く笑ってまた頷いた。
「俺も今のお前を娶る気になれなんだ。何せお前はあんまり子供じゃ」
「あ、あっしは子供じゃない!この春女になったんじゃ、知らんのか、彦左?」