第11章 斎児ーいわいこー
山の下では桜も葉桜になり、野のものも里のものも地の花が咲き開いていたが、この深山はまだそこまで賑やかしくはない。背の高い山桜が、裾野近くの瑞々しい新緑の中儚げな薄桃色で山の笑いを彩り、下生えの姫立金花や一輪草が細やかに可憐な花弁を開いて季節を謳っている。
雪解けの沢水を思わせるピリッと冷たい山の気は凛として、でも矢張り初夏の訪れを感じさせる明るさに満ちていた。
広々と胸の広がる心持ちで清々するのだが、連れ立って歩く相手のお陰で今一つ気が晴れない。
「朝飯は何を食った?」
怠げな声の乗った息が酒臭い。
「…山菜の汁と麦の飯を」
酒は苦手だ。呑むと肌が斑に赤らんで痒くなる。実際この酒臭い息を嗅ぐだけで、体がむずむずしてあちこち掻き毟りたくなってしまう。
「はぁん。味噌を使ったってか。張り込みやがったな、サクの奴」
またも怠げに吐かれた問いはご丁寧に大欠伸を伴って盛大な酒精の名残りを容赦なく吹き付けて来る。
「味噌も米も麦も山にねぇもんはサクが手前の稼ぎで手に入れてんだ。炭を焼いたり、何だりかんだりでよ」
非難がましげに言われて、肩がすぼまった。
「悪ぃと思うんなら後の払いってヤツをうんと弾めよ」
尤もらしく諭されて、喉まで出かけていた酒臭さへの文句を呑み込み、素直に頷いた。
はあ、やれやれと呟いて、裸足の足が下生えを踏みつけて先を行く。その大きな足は滑りを帯びた鮮やかな緑で、目の前で左右に揺れているのは尋常な背中ではなく、大きな甲羅だ。
「………」
「何だ、何か文句あんのか!?甲羅が珍しいか!?あぁ!?」
「……あ、いや…」
「そら珍しいだろうな!おめぇらにゃ甲羅も皿もねぇもんな!みっともねぇ連中だぜ!あーあ!くそ、皿が割れるわ!」
頭が痛い、二日酔いだということかと当たりを付けて、気が進まないながら懐から巾着を取り出す。
「良ければひとつ如何」
ずしりと重い巾着から白い薄紙に包まれた取って置きを渋々差し出すと、異形の顰め面が振り向いた。
河童の面相は初めて見たが、思ったより獣らしい。黒目ばかりの目が薄気味悪くもあるが、これが人並みの目なら酒の名残りを隠しきれない血走った酔眼でヌメつけられていただろう。
「何だよ、これは?」
ぶっきら棒に尋ねるこの河童は、山から里に流れ込む川を司る水神無理の眷属で名を弥太郎という。