第10章 丘を越えて行こうよ
ねえ、と、声をかけようとして、詩音は口を閉じた。一也がだらだら汗を流してる。凄く緊張してるらしい。
吹き出しかけた詩音は、ゴクンと笑いを呑み込んだ。緊張しているのと同じくらい、一也が真剣なのがわかるから。
「あのさ。三望苑てのは昼なら兎に角、日が暮れたらデートのメッカでしょ?いいわけ?」
あんなにデートしてるって周りに思われるのを厭がってたのに。それがあるから、詩音もなかなか三望苑に行きたいと言い出せないでいたのだけれども。
「いいも何も。行きたいんだよ、詩音ちゃんと」
一也はきっぱり言って、真っ白いハンカチで額の汗を拭った。
「……」
何か言おうと思って口を開いたけれど、言葉が出てこない。仕方ないから黙って一也を見詰めた詩音に、一也が顔を向けた。
「想像ついた?」
「つかなかった」
「だろ?」
一也の手に力が入った。かさついた手も汗ばんでいる。ついでに言えば、実は一也、手を繋いでからずっと震えている。
「…何震えてんのよ…。馬鹿ねえ」
「…自分でもそう思う」
「手ェ繋いでデートに誘ったくらいでこんなになるんだったら、童貞拗らせて魔法使いになるしか道はないよ、一也」
「ならないよ」
「へえ?自信満々だね」
「自信満々とか何とか、正直それどころじゃない」
「だろうね。こんなに震えてんじゃ」
シャンパンを啜って詩音は人の悪い顔で新郎新婦と一也を見比べた。
「女と男の付き合いにはねぇ、まだまだ先があるんだよー。いざとなったら鼻血吹いて気絶すんじゃないの、アンタ」
「どうかなぁ。そのときになってみないとわからないな」
「ふ。呑気だこと。そんな調子じゃやっぱり魔法使いコースだ」
「だから頑張るんだよ、これから」
「ふぅん」
口を引き結んで前を見る一也の横顔を見て、詩音はふっと笑った。
「まあ幸運を祈るよ。頑張って」
繋いだ手を持ち上げて、一也の手の甲に口を寄せる。パールピンクの口紅がうっすらと一也の手を彩った。
「さて、そろそろ演し物の時間だ。美佳子ちゃんの歌に伴奏して来るよ」
ぼうっとしている一也の手を離して、詩音はグラスをテーブルに置く。
さあ、頑張るかとうんと深呼吸すると、錯覚か既視感か、何故か青熱れが匂って三望苑に吹く風が匂ったような気がした。見晴台も、こんな青熱れが匂うのだろうか。清清する。