第10章 丘を越えて行こうよ
敏樹と加奈子の結婚式が挙げられたのはその年の秋の事。
加奈子のお腹が目立つ前にと、敏樹が張り切って驚くべき早さで手配をした。顔が広い敏樹らしく、話はトントン拍子だった。
「お目出度いっちゃお目出度いけど」
薄い空色のワンピースを着た詩音が、フルートグラス片手に人の悪い顔で笑った。
「あの敏樹相手にこれから大変だよ、加奈子さん」
「いいや。アイツは大丈夫だよ」
送迎係を引き受けた一也は、ちびちびとお茶を呑みながら笑った。
「ちゃんと加奈ちゃんを大事にするよ」
そんな一也をチラリと見て、詩音は顔を顰めた。
「加奈子さんがお好み焼き屋の女将さんなんて想像つかないな…」
「そのうちお好み焼き屋の女将さんじゃない加奈ちゃんなんて想像つかないって言われるようになるよ」
「ふぅん。そうなったら面白いけど、やっぱり想像つかないな」
「想像つくことばっかりじゃ面白くないだろ?」
手が温かいものに包まれて目を向けると、ペンキ仕事で荒れた一也の細長くて大きな手が詩音の手を握っていた。
「…何やってんの、アンタ」
「想像ついた?」
「つくわけないじゃん。何やってんのよ」
「詩音ちゃんと手を繋いでる」
「それはわかる」
「そう?じゃ何やってるかなんて聞くことないんじゃないの?」
振り払おうと思っていたのに気が萎えた。
そう言えば昔から手だけは大きくて繊細な形をしてたな、コイツ。
小さい頃幾度となく繋ぎあった手。久し振りの感触は、昔より随分しっかりしている。
「式が終わったら三望苑に行こう」
手を繋いだまま新郎新婦を眩しそうに眺め、一也が鹿爪らしく言った。
あれ?アタシ、まだ一也に何処に連れてって欲しいか言ってないと思ったけど。
詩音は目を瞬かせて首を捻った。
夏祭りに倒れて病院に運ばれる前、詩音とした約束を一也は迅速に遂行した。なかなか男らしい。ちょっと見直した。
つまり、翠ちゃんはご褒美にサーティワンのトリプルを食べたし、小坂はもう人前で脱がないと誓ったし(これは正直ちょっと怪しい)、黄鶴楼の紹興酒と塩卵は美味しかったし、敏樹の誤解はすっかり解けたし、加奈子さんと敏樹は一也伝えと、直接と、アタシから二回、おめでとうを貰った。
後は涼しくなったら、詩音ちゃんを希望のところへ連れて行くだけ。