第10章 丘を越えて行こうよ
「今野にも水買って来てやるか?お茶こぼして手ぶらで出てったぞ、あの粗忽者は」
「は?ちょっと待て。だったら始めからビールじゃなく水に…」
じゃなくて!
それを早く言ってよ。
一也はビールを持て余しながら足早にステージ裏に回った。
もう水より経口補水液じゃないか?
折り悪く子供会の恋ダンスが終了して、ステージでは次の演し物の準備が始まっていた。ゆりべこちゃんの詩音が頭をゆらゆらさせながら、雑談混じりで意外にも軽妙に司会をこなしている。
最近それでなくても変な感じだったし。
暑くて寝が足りないのか食が落ちているのか、詩音には珍しくあらぬ場所を見てぼうっとしたり、何かに耳を澄ませるように口を噤むことがあった。
会合の帰りに妙な様子になってもいたと思い出す。あのときは一也もちょっと変な感じになった気がするが、多分みんな暑さのせいだろう。
お盆が近いからってお化けなんかに出られちゃたまらない。あれは暑さから来る気の迷い、それより詩音のことだ。
夏バテかなとは思ってたけど、だったらそう言えばいいのに。
詩音は言わない。
ずけずけものを言うわりにあまり自分のことを話さないのだ。怒りながら泣き言を呑み込んで無理をする。
そういうコだってわかってるんだからもっと気遣ってやれって話だよな。遣えば遣ったでまた怒られるんだろうけど。
離婚のことでも愚痴を言わない。だから実際何があって詩音が地元に戻って来たのか、家族以外は誰も知らない。
そのせいで周りがますます気遣いするやら興味を持つやらで、一度泣き言を言って弱味を見せればいいのだ。そうすればみんな納得して静かになるだろう。離婚の原因に気を引かれているのも大いにあるが、皆本当に詩音が強がって無理をしてるんじゃないかと心配しているのだ。だから、泣いてみせればいい。泣いてスッキリした顔をすれば、皆満足するのだから。
でも詩音は言わない。
きっと言わない。泣きもしないだろう。
詩音が泣いていたのはほんの子供のときだけだし、その泣き顔も三望苑で見晴台に行きたいとごねたとき以来見ていない。
だからだろうか。
三望苑にはやっぱり詩音と行きたい。
今更自分と三望苑に行ったところで詩音は喜ばないかも知れないが、喜ぶ顔が見たかった。手を引かれるのではなくただ手を繋いで、詩音と幼い頃行き損ねた丘の上に行きたかった。