第2章 並
いや待てよ。なら火はどうする。火がなくては魚など食えんぞ。酢で〆たものならまだしも、まんま生魚など食うた日には腹が渋くなる。皆は平気で食うとるが気が知れん。あっしは真平御免じゃ。
火口と火打ち石が何処かにあった筈だ。並は目をぐりぐりさせて記憶を辿った。
···確か、厨の竈神のところに上がっとらんかったか?うん、そうじゃ。年始にととさまがあっこから下ろして竈に初火を入れとった。
ここまで思い当たって、がっくり頭を垂れる。
また厨かいな。
どうでも厨に行かねばならぬらしい。並はうんざりと立ち上がって小蟹の入った籠を持ち上げた。
ちと嵩が足りぬようだが知った事か。どの道酔っぱらいの酒腹に入るものなのだ。蟹だろうが何だろうがわかるまい。何ならフナムシかゴカイでも打っ混んでやりたいところだ。
ぴたぴたと濡れた裸足で歩き出した並は、ふと高台に動くものを見止めて立ち止まった。
遠目だが、並にははっきり十市の姿が見てとれた。髷を結い暑苦しい袷を着込んでいるのは十市くらいのものだから、ましてはっきり目に付く。
十市はひとりではなかった。木陰に紛れて定かではないが、もうひとつ人影がある。
連れがある?珍しやな···
人影は見極めが難しかった。衣装が周りに馴染み過ぎている。
あの色味は山の者か。やれ忌々しい。
山の里人は狩りの際、獣の目に付かぬよう景色に紛れる工夫をする。着る物も言わずもがな、また狩りでなくとも好んでそうした恰好をするので、山や林で行き会うと息の根が止まるかと思う程驚かされる。
それでもそれは男に限った事、並の兄嫁たちを見てもわかるが、女衆はもう少し明るく柔らかい色味の着物を好む。
とすると、今十市と居るあの人影は男という事になる。
呑気に逢い引きかよ。こっちの気も知らぬでいい気なもんじゃ、浮かれ女が。
舌打ちして行きかけた並は、不意にハッと振り返った。
彦左の顔が頭を過ったのだ。
十市に舟を贈り、並に櫛を贈った彦左の顔が。
焦って見直した高台に人の姿はなかった。確かに見止めた十市さえ見当たらない。
···気のせいじゃろうか···
並は頭を振ってまた歩き出した。
いかん。これではあっしが悋気を起こしておるようじゃないかさ。違う違う。違うぞ、違う!
目が回りそうな程頭を振って、並は眉尻をぐんと上げる。