第10章 丘を越えて行こうよ
だけど加奈子さんはもっと大丈夫じゃないんだから仕方ない。
加奈子さんは切迫流産で無理の出来ない体なのだ。切迫流産っていうのはつまり、流産し易い状態にあるってこと。軽度らしいけど無理せず安静にしてなきゃならない。そんな人にこの暑い中町内の夏祭りの司会なんかやらせられやしない。そもそも隠れファンの多い加奈子さんのこと、珍しくかしましい場所に顔を出したりしたら、鼻の下を伸ばした馬鹿男共に付きまとわれて疲れさせられること請け合いだ。
「あー、暑い!ムカつく!腹立つ!イラつく!」
毒づきながら着ぐるみの重い頭をとり、汗に濡れたひっつめ髪の後れ毛をバサバサかき上げた詩音を一也が目を瞬かせて二度見した。溜め息を吐いて何か言いかけて一度、瞬いて斜め下に視線を落とし、また顔を上げて二度。
「…何よ?」
冷たいお茶をぐいぐいぐい呑んで口元を拭った詩音が剣呑な目で一也を見返す。
「口開けてバカみたいな顔してんじゃないわよ。口に拳骨突っ込むよ?」
「…いやー。いつもキレイにしてて、そういう頭の詩音ちゃん、初めて見たから、何か…」
「いつもキレイにしててってのは全くその通りだけどさ!頑張ってキレイにしてんだから!でもそういう頭ってどういう頭よ、失礼な!確かに暑さで頭がおかしくなってきてるけれども!」
「そういう頭の話じゃないよ…」
「じゃどういう頭の話だよ!もーうるさいな!」
蹄の手を振り上げて威嚇する詩音から頭を庇いながら一歩離れた一也が首を振る。
「髪、頭に生えてる髪の毛の話だよ」
「アタシの髪がどうしたって!?茶がかって素敵に綺麗な緑の黒髪に何か文句あるか!?そういうのは緑の黒髪って言わないってか!?悪かったな、コノヤロウ!」
「別に黒髪じゃなくたって綺麗だろ。子供のときからそう思ってたけど?」
妙に真面目に言われて詩音は珍しく怯んだ。
「あそ…。そりゃ、どうも」
全然何ともないことなのに、じわっと顔に血がのぼる。詩音は慌てて、頬を叩いた。
「何やってんの。やめな」
一也がバチバチ頬を叩く詩音を止めようと手を伸ばす。それを避けようとした詩音はガタッと椅子から立ち上がろうとして立ち上がり損ね、床に転がった。
「………ホント何やってんの?詩音ちゃん。緊張してんの?」
「うるさい!起こせ!手を貸せ!着ぐるみのせいで立てないクソッ!」