第10章 丘を越えて行こうよ
「俺は出来ないことを言うほど気は大きくないから」
そう言って目尻に笑い皺を寄せた一也を見ていたら、また誰かが笑ったような気がして、詩音は振り返った。
やっぱり誰もいない。
けれど、怖い、という気は何故かもうしなかった。
息苦しい熱帯夜の風が吹いて何処かの家の軒下で風鈴がチリンと鳴る。すう、すうと波のように二回吹き抜けた風が、誰にふいっと手を握られて、また放されたような感触を伴って、宵の町並みを通り抜けて行く。
「………」
まるで、ふたりの子供に代わる代わる手を握られて、逃げられたような。
掌を見つめて佇む詩音に一也が訝った目を向けた。
「どうしたの?」
「…何でもない」
何だか覚えのあるような感触。
詩音は風の吹き抜けた方を見てぼんやり首を振った。
一也のうちで聞いた笑声を思い出した。あの懐かしさ。
「ちょっとバテたかな。帰って寝る」
「そうしなよ。夜更しばっかしてたらますますバテるよ」
「余計なお世話だ。就寝時間にまで口出すな。送んなくていいわよ。アンタ、これから中身の手配するんでしょ?」
詩音に言われて一也は首を振った。
「送るよ。中身の当てにはいつでも連絡出来るから」
誰に頼む気でいるんだか。
引っ掛かったが、それより掌に残る感触が気になって、詩音は上の空で頷いた。そんな詩音に一也は妙な顔をした。
「…大丈夫?もしかしてまた何か聞こえた?」
何となく説明するのが億劫でもぞもぞ別にと答えた
「そう。ならいいけど」
一也が心配そうな顔に強いて笑みを浮かべた。あまり追求しても怒鳴られるとでも思ったのか。懸命な判断だ。
「ネイガーに関しては当日を楽しみにしててよ。絶対外さないからさ」
そう言って珍しく人の悪そうな顔で目尻に皺を寄せて笑った一也が好ましく見えて、詩音は困惑した。二の腕を掻いて顔を顰める。
「…いや、こりゃ重症だわ。いよいよ帰って寝る」
また何処かから笑い声がした。一也には聴こえていないようだ。
思ってたより祭りに浮かれてるのかな。
興奮してアドレナリンがあらぬものを見聞きさせているのではないか。子供の笑い声とか、好ましい一也とか。