第10章 丘を越えて行こうよ
さっきまでの荒ぶり方が嘘のような詩音の笑顔に、一也が眉を下げる。
野太い声の主は、春祭りでふたりの同級生の加美山と掴み合いの喧嘩をしたとかいう町内会副長の柴田のおっちゃんだった。
「どうしたもこうしたも大変だぁ。ネイガーが来れねんだってよぉ!」
禿げ上がった額を叩いて、柴田のおっちゃんは大汗をかいている。この大汗は暑さのせいばかりではない。祭りの目玉のネイガーが来れないとはこれ如何に?大事だ。
「どういうこと?」
眉を顰めた一也に、おっちゃんは首を振って自分の脹ら脛を指差して見せた。
「肉離れ」
「は?」
「肉離れ起こしてステージから落ちて骨折したんだと」
「……つまり、骨折して来れないってこと?」
「肉離れ情報要らねぇじゃん」
聞き返す後ろでボソッと漏らした詩音を肘で突いて、一也は眉間の皺を深めた。
「代わりは来れないって?」
「何処も祭りの時期だからな。手透きがねんだってよ」
「そうか。だろうね」
そうでなければこの夜にわざわざ連絡などよこさない。明日になっても、本番の明後日になっても代役の当てはないから、少しでも早く対応出来るように連絡して来たのだろう。
「ネイガーは人気者だなぁ」
呑気にご当地ヒーローの人気に感心する柴田のおっちゃんをよそに、一也は何やら考え込んでいる。
「……企画会社は加美山の友達のとこだよね」
加美山の名前を聞いた途端、柴田のおっちゃんの布袋顔が渋くなった。
「そうだったか?」
「そうだよ。春も頼んだろ、加美山経由で演歌の人を」
「あー」
「あーじゃなく。おっちゃん、加美山に衣装だけでも借りられないか聞いてみるように言ってくれないかな。加美山がごり押ししたら多少無理でも何とかなるかも知れない。事情はどうあれドタキャンしたのはあっちなんだし」
「俺がヒロシに連絡とんのか」
「俺は中身の手配するから、おっちゃんはヒロシに連絡。イベント企画したのはおっちゃんだろ?いい加減俺を挟んで加美山と連絡とるのは止めてくんないかな。俺も裏の進行で忙しいんだから」
「加美山ならアタシが連絡しても…」
言いかけた詩音を一也がまた肘で突く。
「頼んだよ、おっちゃん」
「…あー…」
「あーじゃなく。頼んだよ、おっちゃん」
渋々頷いておっちゃんは一也の顎が細くて頼りなげな顔を見た。