第10章 丘を越えて行こうよ
「………」
コトン。
「うるさい!」
がばと起き上がって庭に面した窓を開ければ、案の定一也がいた。蒸し暑い庭で匂い立つ樹花の香りに巻かれて、頼りなげに佇んでいる。
…様々な夏の庭の植生の香りの中、一際激しくソースが匂う。
一也が手にしていたビニール袋を掲げて見せた。
「詩音ちゃん、あのお好み……」
「要ーらーなーい。全ッ然要らない。今一番要らない。わざわざムカつかせに来た訳?帰って歯ぁ磨いてクソして寝ろ!バカタレ!」
ピシャンと窓を閉めたら、またすかさずコトンと一也の呼ばわる音がする。
「しつこい!」
ガラッとまた窓を開けると、さっきより近くに一也が居た。
「俺からじゃない。敏樹からだよ。悪かったって。貰ってやってくれないかな。アイツあれで色々気に病んじゃう方だからさ…」
「…繊細なサッカーバカを気遣えってか?出戻りの詩音ちゃんに?」
「出戻りとか関係ないだろ。悪いこと言っちゃったから謝りたいって言ってるんだ。許してやって欲しいって話」
「許すも許さないもないよ。別に。どっちにしたって何にも変わんないんだから」
許そうが許すまいが、起こった事は変わらない。第一詩音は敏樹に腹を立てている訳ではないのだ。強いて言えば自分に苛立っている。自分で決めた離婚なのに、腹が座らずイライラしている自分にこそ腹が立つ。
「怒ってないなら敏樹にそう言ってやってよ。随分ほっとすると思うよ」
「ほー、そうか。敏樹くんはそんなに詩音ちゃんが好きか」
「当たり前だろ。付き合いの長い幼馴染みなんだから。…俺だって…」
言いかけて口籠った一也から、詩音はまだ温かいお好み焼を取り上げた。
「何だ何だ、詩音ちゃんは大モテだな。こりゃあっと言う間に再婚しちゃうんじゃないか?」
「え?もうそんな話があるの?」
目を見開いた一也に詩音は口をへの字にした。
「ある訳ないっての。冗談でしょ。男なんかこりごりだって言ったじゃない」
「そう…。じゃ、やっぱり秋田まで出張って…」
「オカマバーは行かないってそれも言ったろ!人の話聞いてんのかお前は!」
「聞いてるよ」
「聞いててこのザマか!」
「気を付けるよ。詩音ちゃんにオカマバーはNGワードなんだな」