第10章 丘を越えて行こうよ
「よく来るの?」
「は?」
詩音同様一也と加奈子の方を見ていた敏樹が、目を瞬かせた。
「は、じゃなくて。加奈子さん、よく来るの、ここに?」
「うん?まぁ、あー…、そこそこ、来るっちゃ来るのかも知れないな…。多分」
「何だそりゃ。来るのか来ないのかはっきりしろィ」
「来るときは来る」
「…ええ、まあそうでしょうね」
「来ないときは来ない」
「…ああ、それもご尤もですね」
「どちらとも言えない」
「…聞いて損したと思わせるなんて、アンタ本物の馬鹿だ」
「ホンット口悪いな、お前!」
「何を今更」
「そんなんだから離婚されんだぞ」
言ってから、敏樹があからさまにしまったという顔をした。口を開け、閉めてからまた開け、何か言おうとして言葉を探すも上手くいかないらしく、会話は途切れた。
覆水盆に帰らず。
詩音は無言で立ち上がると、一也も、加奈子も、敏樹も、誰一人一顧だにせずさっさと店を出た。
「詩音ちゃん?」
後ろ手に閉めた店の引き戸の向こうから一也の小さな声がしたような気がしたがそれが何だ。
詩音は誰かが追って来たりしないように、帰り道とは無縁の道を延々と大回りしてうちに帰った。
歩き尽くめて足がじんじん痛んだが、それが何だ。大した事じゃない。
玄関の上がり口に腰かけてヒールの低いパンプスを脱ぎ、きちんと揃えて土間に置く。寝静まった家人を起こさぬよう、玄関からすぐの自室にそっと入った。
「…笑っときゃよかった」
あの状況では気を遣わせる。せめて笑っておけば良かった。
うつ伏せにばったりベッドに倒れ込んで、詩音はくぐもった声でまた呟いた。
「…いやー。前振りなしのそれはまだ無理…」
好きで一緒になったのだ。嫌いで別れた訳でもない。
「…こういうの、誰に説明したってしょうがないんだよな…」
相談は出来る。愚痴る事も。
けれど、本当にどういう気持ちでいるのかは分かって貰えるものではない。これは詩音だけの痛みだ。誰も彼もが自分だけの痛みを抱えているのとなんら変わりない。だから闇雲に自分の気持ちを伝えようとするのは、我が儘のように思えてしまう。
口が悪いからと言って何でも好き勝手に言い散らかしている訳ではないのだ。これでも。一応。
コトン。
窓が鳴った。
「…………」
詩音は起き上がらずに耳を澄ました。
コトン。