第2章 並
瞬く間に並の顔が熟れた唐茄子のように真っ赤に茹だった。
恥をかかされたと思った。怒りに痺れた頭がチリチリ音を立てるのではないかと思う程腹が立つ。
「誰が帰りたいなぞと思うものかよ!馬鹿にして!いいから舟を出せ!それくらいしか役に立たんくせに、この厄介者が!」
「お前が縁付くのは山の里の彦左。そうだな?何せ産まれついて決まった相手だ。忘れようもあるまい。海の者も山の者も皆知っている事でもある」
並の罵り言葉さえ耳に入らぬかのように十市は平然と笑った。笑って並の目を覗き込む。
「わしにあの舟を造って与えたのはその彦左だ。これは誰も知らぬ事」
並は目を見開いた。
図体の大きな目の細い男が脳裏に浮かぶ。このままいけば連れ合いになる筈の朴訥な山の男。
「···彦左が?あの舟を?お前なんぞに何でじゃ!」
「言葉には気を付けろ。そのわしなんぞに頼らねばお前は望みも叶えられんのだろう?気の毒な事よ」
「黙れ!答えや!何で彦左がお前に舟を造らねばならんか⁉お前、彦左に何をした⁉」
カッカと頭に血を昇らせて喚く並に十市は顔をしかめた。
「おいおい、好いてもおらん男の為に悋気を起こすのか」
「誰が悋気なんぞ!」
「なら騒ぐな。舟に乗せんぞ」
「···あぁ?」
十市の意外な一言に怒りの毒気があっと言う間に抜けた。
十市は底の見えない顔をして淡々と続けた。
「気が変わったぜ。行くなら明晩だな。わしは明後日にはここを出る」
また山に入るのか。波は眉をひそめた。
「いつ帰る」
「さあな」
それでは下手をすると輿入れが終わってしまう。並はぐっと顔を上げて十市を睨んだ。
「そう言えば諦めると思うてか?」
「さあ?諦めるのか?わしはお前ではないから、お前の思う事はよくわからん」
いちいち気に触る。この底意地の悪い逸れ者が。
並は内心歯噛みした。
明日発つ事になるとは思いもよらなかった。心積もりが追いつかぬし、何の支度もしていない。
それを見透かしたように十市が言う。
「一度家に戻って支度するがいいよ。明日来んでもわしは一向にかまわんし、それが良手とも思うが···」
「差し出口を叩くな!行くと行ったら行くんじゃ!明日この刻限、岩場で待っとれ!必ず行くからの!」
「ふん?待つと思うか?遅れたら二度とお前の為には舟を出さぬ。喚いとらんで心得よ」