第10章 丘を越えて行こうよ
リードしていたのは詩音なのだから文句を言えた筋合いではないのだが、都合の悪い思い出はいつだって改竄される運命にあるのだ。
だから、悪いのは一也。以上。
鼻たらしの痩せっぽち、頭がいいのでも運動神経がいいのでもなく、ひたすら貧相で気の弱い彼は、どうしようもなくそのまま大人になっていた。懐かしいやら情けないやら
軒下の吊りシノブがチリンと風鈴を揺らした。
煙たい蚊取り線香の匂いが温い風に乗ってフワッと吹きつけて来る。
目を遣れば縁側に素焼きの豚。
現役の蚊取り豚を久々に見た気がする。小野のうちでは電波で蚊を一掃していたので、いやに懐かしい。
詩音は立ち上がって蚊取り豚の側まで行き、すとんとしゃがみ込んだ。クリンクル加工したインド綿のスカートが蚊取り豚の前でフワッと涼しく広がって、スゥッと柔風を吐きながらすぼまる。
「頑張ってるな」
指先で突くと、コツンと固い素焼きの感触が返って来る。愛嬌のある丸い目で見返す豚が可愛い。
「ふ」
何だか可笑しくなって、詩音は膝に手を載せて小さく笑った。
クスクス
また子供の笑い声がした。玄関先で聞いたものと同じ笑声。何処の子たちだろう。聞き覚えのあるような懐かしげな遊び声に、詩音は思わず窓表を見透かした。
「詩音ちゃん?」
「ぅうわぁいッ!!!」
音もなく横に並んでしゃがみ込んだ一也に、詩音は文字通り飛び上がった。
「け、けけけ気配がない!気配がない!怖いわ、一也!」
「……変わんないなあ、詩音ちゃん」
泣き笑いみたいな笑顔の目尻に子供の頃からずっとある笑いジワをよせて、一也が楽しそうに言う。
「詩音ちゃんがこっちに帰って来てくれて嬉しいよ、俺」
「はぁ?嬉しがられても困るわ。こっちゃ離婚して来たんだっつの」
呆れ顔の詩音に突っ込まれても、一也は嬉しそうにニコニコしている。
「笑ってないで空気読め。たく、しゃんとしな、しゃんと」
詩音にバンと背中をどやされて、一也は他愛なく前のめりに倒れかけた。
慌てて手を着いて蚊取り豚にぶつかるのを避けた一也を詩音が笑う。
「変わんないのは一也だよ。ほら、行くよ」
何の他意もなく伸ばされた詩音の手を、一也は苦笑いするだけでとらなかった。
「何処で打ち合わせる?」
「打ち合わせって程の内容じゃないから。確認事項が多いだけで。何処だっていいよ」