第10章 丘を越えて行こうよ
「大ありだよ⁉と言うか、俺にしか関係ないよね、今この瞬間に限ったら!」
「知るかぁあ!!」
叫んで七分丈の袖を腕捲くった詩音が、不意にすとんと綺麗に正座する。
「……?」
頭を抱えて身を縮めた一也がきょとんと顔を上げた瞬間、玄関からただいまの声が聞こえてきた。
小さな子供のはしゃぎ声と疲れたぁと呻く母親の声。
玄関先のビニールプールを思い出して詩音はしかめ面をした。
こいつ、一也のくせに結婚して子供まで…。生意気な…!
ジャイアニズムそのものの思考回路を全開にキッと一也を睨みつける。
一也は詩音の気持ちを察したのか、貧相な顔の前で慌てて手を振った。
「いや、違うからね⁉美佳子だよ、美佳子。覚えてるでしょ?うちの妹」
「あぁ⁉いたなあ!そう言えば!」
「お兄ちゃん、お客さん?」
ひょこと、見覚えがなくもない細い吊り目が客間兼仏間を覗き込んできた。
「…あれェ?もしかしてしぃちゃん?」
細い目がパチパチと瞬いて、物珍しげに詩音を見る。
ハラハラする一也を尻目に、詩音はにこっと微笑した。完璧な笑顔だ。どこからどう見ても優しげな奥さんの穏やかな笑顔。
ーもう奥さんじゃないけど。
「久しぶりだねェ!何か相変わらずだ〜、にこにこしちゃって!」
美佳子はいそいそとデパートの紙袋を仏前に置いて、詩音の隣に座り込んだ。
「離婚してこっち戻って来たって聞いてたけど、ホントだったんだね」
「………」
一也が泡を食った顔で詩音と美佳子を見比べる。
詩音は笑顔を崩さず小首を傾げた。
「そうなの。縁がなかったのね」
「ねー、残念だね~。素敵な旦那さんだったのに。塾の先生だっけ?勿体ないー。でもまあさ、大丈夫だよ。しぃちゃんまだ二十六だし。またチャンスあるよ、大丈夫大丈夫」
「なら嬉しいけど」
にっこり。
一也が青くなってソワソワしている。
「み、美佳子。母さんがいろは寿司に桶頼んどけって言ってたぞ。十三日の夕方」
「あー、盆客のね?幾つだって?」
「三つで茶碗蒸し十五個。ちらし五つ」
「わかったわかった」
卓に手をついて立ち上がると、美佳子は詩音に頷いて見せた。
「お盆なんて忙しいばっかり!子供はうるさいしさ、酔っ払いはしつこいし、やんなっちゃうよね」
「賑やかでいいじゃない?」