第10章 丘を越えて行こうよ
一也がビクッとして階段を二三段、後退った。
「いいからお茶出せハナタレ!お客が来たら先ず挨拶!お愛想!お茶!世間話はそれからだあァ!!こンのバカチンがッ!!」
今野詩音はつい最近まで小野詩音だった。
隣県で塾の講師をしている一見真面目な優男小野武洋の、一見優しげな元ピアノ講師の妻。近所でも評判の素敵な旦那さんの綺麗で穏やかな奥さん。
それが詩音の専らの肩書き。
一皮剥けば口の悪い粗忽者同士の割れ鍋に閉じ蓋、それでも睦まじい夫婦だったのが割れて末まで添い切れなくなったのは、お定まりの浮気余所見が原因だ。
真面目で素敵な筈の旦那さんが余所見と浮気をした。
喧嘩ばかりでも気の合っていた夫婦の大きな違いがここであっさり別れを決めた。
割り切りの早い詩音は一度きりの余所見ですませるならばなかったことにしようと言った。けれど優柔不断な武洋は余所見先と縁を切る事が出来なかった。
事もあろうに武洋は、永遠を誓った片割れからも新しく見付けた片割れからも離れられないと言い出したのだ。
詩音は浮気した挙げ句詩音を薄情者呼ばわりした武洋に一発くれ、さっさと実家に帰って来た。世間一般でいう出戻りだ。
「男なんか皆女になってしまえ」
昔臭いビニールのテーブルクロスのかかった卓に頬肘をついて、詩音はムッツリと呟いた。
手元の冷たい麦茶をひと息に呑み干し、汗をかいた冷水筒から勝手におかわりを注ぐ。
「駆逐してやりたい」
近所でも評判のいい詩音さんはその実大変口が悪い。
「何の為に男なんかがこの世にいるのか。納得いかない…。皆あの世に行けばいい」
「そんな事言われても困るなあ」
ドカン!
卓に指力の強いピアノ弾きの手を叩きつけて、詩音は一也の呟きを一蹴した。
「パジャマで客の前に現れるようなバカ者にしのごの言われる筋合いはない!」
「ごめん、詩音ちゃん。謝るよ。詩音ちゃん全然変わってない。俺の勘違いだった」
ドバン!
「それはそれで腹が立つ!」
「じゃ勘違いじゃなかった?」
「いい年して半疑問で話すな!」
「勘違いじゃなかったです!」
「私が老けて太ったってか⁉」
「勘違いです!!」
「斬り捨て御免!」
「何しに来たんだ、詩音ちゃん!ちょっと落ち着け!」
「私が落ち着こうが落ち着くまいが、お前に関係ない!」