第10章 丘を越えて行こうよ
佐藤塗装店。
今時珍しいレトロな店名。ゴチャゴチャしたガレージにはペンキ缶や大小様々な刷毛、脚立、ニスやラッカーが取り留めなく並べられている。
シンナーの匂いに顔をしかめて、詩音はハンカチで鼻と口を覆った。
ガレージ横の庭に手製の池、鮒か下手をすると鯉のように肥え太った金魚が布袋葵の下に見え隠れする。
手入れのなっていない庭木の周りでは羽虫がわんわん沸いていた。
「変わってないし…」
うんざり呟くと、詩音は羽虫を手で払いながら玄関前まで歩いた。何処かでクスクス笑う子供の声を聞き流しながら、見るからに温そうな水を湛えたビニールプールを避けて呼び鈴を押す。世の中は夏休みだ。呑気なこと。
ビーッ
夏の昼下がり、薄い葛湯に沈んだような気怠くて静かな空気を無粋な呼び出し音が掻き回す。子供の笑い声が近くなった。この暑いのに何処で遊んでいるのだろう。大人しくビニールプールに浸かっていればいいのに。
ビーッ
開け放した玄関から伺える家内から人の気配は感じられない。
「…玄関全開で留守って、もう少し防犯意識とか…」
ブツブツ言いながら心無しホッとした様子の詩音が背中を向けたとき、玄関正面の階段の軋む音がした。
「どちらさん?」
少し甲高い頼りなげな男の声。変わりあるが覚えのある響きに、詩音は厭な顔で振り返った。
「夏祭り実行委員の今野です。昨日お電話した出店の打ち合わせの件でお邪魔しました」
詩音と同じか少し大きいくらい、痩せて小柄な男が夏の家の暗がりから貧相な姿を現す。細い顎に無精髭が見苦しい。
「あれ?」
頭を掻きながら詩音を見留めた男があまり大きくもない目を見開いた。
「詩音ちゃん?オバちゃんが来るかと思ってた…」
相変わらずてんでパッとしないヤツ。
詩音は内心舌打ちする。懐かしいというより、いきなり苛立たしい。
「どっちが来たって実行委員の今野ですよ?お客があるとわかっていてパジャマはないと思うけど。お久しぶりね、一也くん」
言葉遣いだけは優しい詩音の険しい物言いに、一也の顔がくしゃっと弛む。
「ははは、詩音ちゃん、年とって丸くなったな?何か優しそうになったよ」
「うふふ。やだ、私年とった?フケた?丸くなった?太った?あらそう?へえそう。まあそう。ふ、ふふふふふ」
ドン!
土足の足が玄関の上がり口にのる。