第8章 はんぶん コルハムの語り ーセタとマッカチー
だから私はこのキムンカムイの為に、ぽろぽろ涙を零した。これは誰に咎められる事のない正当な涙だ。
蒼い灯りと、そこから切り離されてしまったエペレの為の涙でもある。
「ああ」
パキと朽ち木を踏んで、男が空っぽになったキムンカムイの方へ足を踏み出した。
「そう言えばお前はアトゥイ(海)のポンコタン(小さな集落)から流れて来たのだったな。元のコタンはパヨカカムイ(疫病神)に呑まれたと聞くが、お前はよくよく生き延びる定めのエカチなのだな」
面白くもなさそうに独りで喋るこの男は、アイヌとは思えない。今まで幾度となく見かけて来たアイヌの男たちとは雰囲気も衣装も違う。
整った顔立ちを見れば、たまに群れになってハル(山菜)を採りに来るアイヌの女たちが喧しく噂するところの所謂ピリカクル(美丈夫)という奴なんだろうが、左耳が大きく欠け、坊主頭の額の生え際から頭頂部までゾロリと走る三本の長い傷痕が異様だ。
コイツからこそ、ウェンペの匂いがする。
「…何だお前、口がきけんかったか」
まだ荒い息を吐き続けるマッカチーどうやらチマ(かさぶた)というらしいーに、男は煩わし気な目を向けた。巣穴へ歩み寄りながら、フと鼻で笑う。
「綺麗な顔をしておっても口がきけんのならうまくないな…いや、それともシサム(和人)の言う事がわからんのか?」
「わかる。口もきける」
チマが額の汗を拭いながら、セタの首に手をかけて立ち上がった。
「あなたも知っている。汐崎ニシパ(旦那さん。敬称)。コタンにキムンカムイを売りに来たり買いに来たりする人だ。ニシパ、そのエペレを殺してはダメだ。その子はコタンに連れて帰る。そういう決まりだ」
「アトゥイのアイヌのくせに生意気な口をきくな。しかしコイツの親を仕留めたのは俺だ。だから、そこな子熊も俺の獲物よ」
「アトゥイにはアトゥイの、ウララにはウララのイレンカ(掟)がある。このエペレはコタンに連れて帰ってみんなで育てなければならない」
「アイヌの決まり事なぞ俺に関わりない」
「あなたの理屈も私たちには関係ない」
引かないチマに汐崎ニシパとやらが目を眇めた。顔の凄味が増す。
「クソ生意気なガキだな」
「…クソとは…何?ガキ…もわからない」