第8章 はんぶん コルハムの語り ーセタとマッカチー
滴るのが身上の私から滴るヌプリ(霧)より尚細かな水滴が、上がり始めた夏の気温に煽られてあっという間に空へ昇る。
その空を、滅多と高みには来ないチカプコイチキリ(隼)の鳥影が過ぎった。
吉兆だ。
キムンカムイの爪先が浮いた。退がる気配だ。セタは唸り声ひとつ立てない。マッカチも大きな目をニマ(皿)みたように見張って息を詰めている。
辺りにはただエソクソキの朝啼き声と、小さなエペレの甘えた鼻声が鳴り渡るだけ。
キムンカムイが、腰を捻って踵を返す格好を見せた。
…よし…。まず、まずは収まる…
あとは、互いに構わず離れろ…
肩から力が抜けたその刹那、静かなウララの空気を轟音が劈いた。
「ギャウッ」
セタが鳴くから、一時やられたのがキムンカムイと気付かなかった。キムンカムイが、こめかみから血を噴いて咆哮を上げて腕を振り上げる。嵩が倍にもなったように見える手負いのキムンカムイの影が長々と伸びてセタとマッカチを覆い、倒れた。
エペレの鼻声が止み、代わってマッカチの小刻みに荒い呼気を繰り返すのが聞こえる。生臭い血の臭いが辺りに満ちた。
「メトト(奥山)コタンのチマ(かさぶた)じゃないか。こんなところで何をしている」
ザッザッと無造作に下生えを踏み分けて近付いて来る者がある。ウララ(山)に、キムンカムイに、尋常一様で無く慣れた者だろう。恐れの気配がない。
「迷ったのか。ウララのエカチ(子供)が、情けない事よ」
四十に手が届こうかという精悍な壮年の男が、セタとマッカチの傍らに立って銃を構えた。
「セタを連れて迷子とはますます情けない」
倒れたキムンカムイの頭が、無造作に撃ち抜かれた。
キムンカムイの大きな体が跳ね震え、動かなくなる。
蒼い灯りが立ち上がり、糸を引いて空へ昇った。暗い巣穴の奥へと繋がった糸がやがて切れ、ゆらゆらした灯りだけが薄くゆるく揺れながら昇りながら消え失せて行く。
…何が吉兆だ。コルハム、このタクランケ。
動かなくなったキムンカムイを哀しく見遣る。
コイツはウェンペ(悪者)じゃない。もし今マッカチを殺してウェンカムイ(悪神)になっていたとしても、それは巡り合わせでコイツが悪い訳じゃない。