第2章 並
夜家を抜け出すのは容易だ。
今迄にも夜の海で泳ぎたくて幾度か家を空けている。
末子で唯ひとりの女ノ子のせいか、家族は並に甘い。
どんなに生意気な口をきいても勝手をやらかしても、どこかで並を可愛くて気の優しい女ノ子だと信じ込もうとしているように思える。
もしかしたらそれは、並が早々に家から失せる子だとわかっているせいなのかも知れない。
そう思い付いてからは、家族は並にとって鬱陶しいものに変わった。
生傷を洗い清める真似みたように扱いおって、あっしは開き盲じゃないわ。
何もかもに盾突きたい気持ちが高じ、禁じられた事をこそせっせとするようになって出会ったのが十市だった。
十市は里の民であって里の民ではない。所謂村八分のような処遇にある里人だ。
家族もなく詳しい身の上も知らないが、十市は忌血の持ち主なのだと皆が言う。
磯の民のくせに山の恵みで生き、磯辺に産まれながら泳ぐ事が出来ない十市は、確かに奇異な里人ではある。しかし十市は今の並に必要な物を持っていた。
舟だ。
里の者は皆水練が達者だし、漁と言っても素潜り、大きな盥を海に浮かべて海底の獲物を狙うばかりで磯辺を離れる事がない。そんな里に舟は必要ないのだ。
忌み疎まれながら十市が里に居られるのは、山の里とやり取りせずとも山の恵みを調達出来るその密かな利便と、舟の存在が大きい。
磯辺に辿り着いた流れ仏様を陸へ揚げるのにも、ごく稀に内海に現れる勇魚や逆又に銛を打ち、弱るのを待って運ぶにも舟は助けになる。
泳ぎや潜りや盥では為さぬ用を船は足してくれるのだ。例えそれが手漕ぎの木っ端舟でも。
しかし里にとって何より有難いのは、年に二度春秋に行事られる参拝が容易になる事。
祈りを捧げる沖神島は遠い。
誰も足を踏み入れてはならない神領地でもある。
拝み岩も遠い。
神領地に一番近いこの大岩迄拝み屋のばばさまを連れて泳ぐのは、如何に水練に長けた里の男たちであっても骨が折れる大仕事なのだ。
尋常でなく目の利く並は、夜道を歩くにも灯りが要らない。里の際にある高台への道を迷い無くサクサクと歩きながら、考えを巡らせた。
沖神島には誰も近寄れない。あそこに逃げれば追手もかからず山に行かぬですむ。
が、沖神島は泳いで行くに遠過ぎる。
十市に舟を出して貰わねばならない。何としてでも応と言わせねば。