第2章 春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそみえね 香やは隠るる
まず、梅の花が咲いた。
風呂を上がって湯だった身体を冷ますのに、縁側で満開に咲いた梅の花を眺めていた。
「おう、シカマル。すまんがちと来てくれ」
「あ?」
タオルを首にかけたまま親父に連れられ、サンダルのまま向かったのは奈良家が飼育している鹿たちの暮らす山。
夜にここを訪れる事はほとんどないが、今夜の森の様子がおかしい事はわかった。
鹿たちが騒がしい。
春が来て嬉しいからとかでは無い。
牡鹿たちが、足を踏みならしてまで興奮している。
「血?」
「何かの死骸か?」
その何かを取り囲んでいた鹿たちの中心。
聞こえてくるのは、ぎゃぎゃ!という獣が威嚇する声。
決して鹿の声では無い。
覗いて見れば、黒い狐が下半身を血まみれにして、俺たち人間の匂いに威嚇をしていた。
ふー!ふー!と体全体で息をする様子は痛々しく、かといって安易にさわれるような雰囲気でもなかった。
「影で押さえる」
「麻酔なら持ってきてるぞ」
俺が狐を影で縛る。
親父が狐に麻酔を打って黙らせる。
鹿たちは事態が収まった事を確認すると、あっけらかんと山の奥へと戻って行く。
親父はウチが懇意にしている獣医の元へ、俺はこいつに麻酔が回るまでの見張り。
影に捕まりピクリとも動く事が出来ないのに、金色の目でぎょろりと俺を睨みつけ続ける。
「あー…めんどくせぇ」
見上げた空は星が爛々と輝いて、北斗七星がほとんど真上に見えた。
そのうち、荒い息遣いが穏やかになり、やがて苦しそうな寝息に変わる。
この小さな体で、鹿用の麻酔を打ったからしばらくは起きる事はないだろう。効き目が強すぎてそのまま死なないか心配だが、とりあえず見殺しにはできないので、血まみれの黒い狐を抱き上げてひとまず家を目指した。