第2章 春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそみえね 香やは隠るる
それから幾度も朝と夜を繰り返し、私の怪我も良くなった。
白い苦しい物もいつの間にかなくなっており、舐めて綺麗に毛づくろいできる。
この人間の雄は本当に良くしてくれた。
毎度飯の量は少ないが、美味い。
この雄と似たような匂いのする雌もおり、時折声を掛けてくれた。
もう怖いとは思わない。
すると、また檻が揺れ始め、次は山の匂いと鹿たちの匂いに包まれた。
「なんか、寂しくなるわね。じゃぁね、クロちゃん。元気でね。」
「名前付けたのかよ。」
「黒い狐ちゃんだもの、クロちゃんでしょ。」
声が聞こえ、檻の扉が開かれた。
しかし、身体が動かない事は無かった。
開かれた入口の先には見慣れた山。
逃げ出すにはいい機会だった。
「あー、行っちゃった。」
「行っちゃっていいの。むしろ行かないと困るっての。」
このことが、私の記憶の中でもっとも楽しい記憶の始まりになるとは思いもしなかった。
(孕鹿の季節)