第5章 彼の過去
それが今の全てだから。
「二人目だろうと三人目だろうと関係ありません。煉の今の教師は私です」
きっぱり言い切る佐奈に、彼女の目がぎらついた。
「ホント、生意気……っ」
言いかけ、掌を振り上げる。
ぶたれる、と思わず目を閉じた佐奈だったが、しかし。
「がうっ!」
「きゃっ!?」
衝撃はいつまでも訪れず、変わりに耳朶に飛び込んだのは犬のような、動物の唸り声。
とっさに目を開けば、佐奈と彼女の間に割り込むように…佐奈を守るように立ちふさがる、真紅の狼が映った。
「え……」
束の間、頭がついていかなくて、佐奈は絶句する、が、すぐに気づいた。
「煉、なの?」
不安げに落ちる声に、狼が一瞬、佐奈を一瞥する。
真紅の双眼が和むように細められたのも束の間、狼は彼女に向き直ると威嚇を込めた眼差しを据え、唸りを上げた。
「ひ………っ」
途端、今までの勢いは消え、蒼白と化した彼女は何度も転びながら逃げ去って行った。
明日になれば、これはいろいろと問題になりそうだ…けれど、今は……。
佐奈はその場に膝をつくと、そっと赤い毛を撫でた。
「煉?」
そうだよね、と、疑問符というよりは確信を込めて呟けば、真紅の狼は、すり、と佐奈に鼻を寄せ、それからぺろり、と頬を舐めた。
それはまるで……。
『もう大丈夫』
そう、言ってくれているかのように。
それが嬉しくて。
「ありがと、煉」
呟いた途端、佐奈の目から涙が零れた。
泣くつもりなんて、なかったのに。
佐奈が涙を拭おうとすると、狼…煉は、
「くぅ…ん……」
小さく鳴きながら、ぺろり、と佐奈の涙に舌を這わせた。
「煉……」
見つめる赤い目はいつも以上に穏やかで…それ以上に、今は何処か、慰めてくれるかのように優しく見えて。
「ん、もう…大丈夫……」
ありがとね、と、小さく継いで、佐奈は狼を抱きしめた。