第6章 漆
こんな日に限って、仕事はあっという間に終わってしまった。
帳面も整え、湯も替え、廊下を磨き、庭の世話さえした。
やるべきことはすべて済ませた。
それでも落ち着かず
もう十分きれいなはずの台所を磨く。
指先に力を込め、何度も。
何かしていないと、胸の奥の空白が広がってしまうから。
やがて本当にやることがなくなり、は自室に戻った。
正座して、膝の上に手を置き、目を閉じた。
静かだ。
屋敷は広いのに、音がほとんどない。
時計の針だけが、やけに大きく響く。
――今夜は戻らない。
あの言葉が、何度も耳の中で反響する。
ちゃんと分かっている。
なのに…
廊下のきしむ音に、はっと顔を上げた
耳を澄ます。
……違う。
風だ
障子が、かすかに鳴っただけ。
胸がどくんと鳴る。
しばらくして、今度は門の方で音がする。
砂利を踏むような、かすかな気配。
思わず立ち上がる。
襖に手をかける。
――違う。
ただの猫だ。
気配はすぐに消える。
そっと、襖から手を離す。
胸の鼓動が、まだ速い。
(……何を)
自分に呆れて、失笑が溢れた。
帰ってくるはずがないのに、
なにを期待しているのだろう。
頭では分かっているのに。
ほんの小さな音に、体が勝手に反応して
心が先に跳ねる。
そのたびに、静けさが落ちてくる。
期待した分だけ、重く。
襖にかけた手をぎゅっと握りしめた。
(……みっともない)
たった一度、抱きしめられただけだ。
気まぐれに、頭を撫でてくださっただけ。
直哉様のことは分かっている。
何年も教えられてきたことだ。
彼にとって、女は人でさえない
ただの道具。
ちがいは、便利か、そうじゃないか。
それだけなのに
「お前のままでいい」なんて言葉を
どうして信じようと思ってしまったのだろう。
自分でさえ、何が私かわからないのに。
私は、誰かのためにしか存在しなくて
誰かの選択の上でしか動けない。
当然だ
自分の意思なんて持ったことがない。
したことがないことは、わからないのだから。