第6章 漆
翌朝、薄い朝日が障子越しに柔らかく差し込み、部屋を淡い金色に染めていた。
直哉は布団の上で、眠り続けるの肩にそっと唇を寄せた。温かく、汗の残る肌に軽く口付けを落としながら、視線を肩に咲く胡蝶蘭に移す。
白く大きな花弁が、静かに揺れている。昨夜の激しさとは対照的な、穏やかな美しさだ。
のまぶたが、ゆっくりと開いた。まだ眠気で霞んだ瞳が、直哉を捉える。
「……なおやさま?」
掠れた、甘い声。
直哉は彼女の細い指に自分の指を絡め、軽く握り返した。
「ん?」
はぼんやりと彼の顔を見つめ、首を小さく傾げる。
「なんだか…いつもと違うみたい」
直哉は一瞬、眉を寄せた。
「そんなことない」
即座に否定するが、声の端に微かな動揺が混じる。自分でもわかっていた。
は否定を信じていない。瞳を細め、じっと直哉を見つめる。
「私……」
言葉を切り、息を吸う。
「直哉様がいないと、生きていけないと思います」
直哉の指が、わずかに強張った。
「けったいなこと言うなぁ? なんか変な夢でも見たんか?」
軽く笑い飛ばそうとするが、声が少し掠れる。
は何も答えなかった。ただ、じっと直哉の瞳を覗き込み、絡めた指をさらに強く、ぎゅっと握りしめる。
「だから……私をおいて行かないでくださいね」
小さな、震える声で呟く。
直哉は一瞬、嫌味を吐き捨てようとした。いつものように、軽く突き放す言葉を。
だが、そんな気になれなかった。
代わりに、低く、静かに言った。
「……ちゃんと着いてこい」
の瞳が、わずかに揺れる。
「俺はお前に合わせたりはせん。
だからお前がちゃんと俺の後ろについてきたらええ」
言葉は厳しく、しかしどこか優しい響きを帯びていた。
は、ゆっくりと身体を起こし、直哉の胸に飛び込むように抱きついた。細い腕が彼の背中に回り、強く、強くしがみつく。
直哉も、彼女の背中を抱き寄せた。大きな掌で、華奢な身体を包み込むように。
胡蝶蘭の花が、朝の光に透けて白く輝く。
直哉はの髪に顔を埋め、そっと息を吐いた。
は直哉の胸に顔を押しつけ、静かに頷く。
2018年の、穏やかな春のことだった。