第1章 壱
湯船から上がると、直哉は腰掛けに座り、背を向けた。
「次」
短くそう言って、桶に手を伸ばす。
は無言で頷き、手早く準備を整えた。
湯を張り、手拭いを浸し、余分な水を落とす。
教えられた通りの手順を、頭の中でなぞりながら。
「失礼いたします」
そう告げてから、そっと背中に湯をかける。
熱すぎないかを確かめるように、慎重に。
直哉は何も言わず、そのまま背を預けていた。
石鹸を泡立て、肩口からゆっくりと流す。
力は入れすぎず、一定のリズムで。
肩、背中、腰へと、順に手を滑らせる。
湯気の中で、音は最小限だった。
水の落ちる音と、手拭いが肌をなぞるわずかな気配だけ。
「……手際ええな」
ぽつりと、直哉が言う。
「無駄がない」
「ちゃんと教え込まれとる」
は答えず、ただ手を動かし続けた。
言葉を返す必要はない。
今は、役目を果たすことだけでいい。
背中を流し終え、最後に湯をかけて泡を落とす。
「以上です」
そう告げると、直哉は小さく息を吐いた。
「上出来や」
「……今日はここまででええ」
その言葉に、は一歩下がり、静かに頭を下げる。
湯気の向こうで、直哉の表情ははっきりとは見えない。
けれど、その背中から伝わる空気は、先ほどよりもわずかに緩んでいた。
は何も考えないようにして、浴室を後にする。
今日一日の勤めを、無事に終えた――
ただそれだけを胸に留めながら。