第1章 壱
夕餉を終えると、直哉は箸を置き、満足したように小さく息を吐いた。
膳の上はほとんど空になっている。
「……ふぅ」
「まあ、悪うなかったわ」
それだけ言って立ち上がり、何事もなかったかのように部屋を出ていく。
は急いで後片付けを済ませ、少し遅れてその背中を追った。
やがて辿り着いたのは、屋敷の奥にある浴室だった。
湯気がほのかに廊下まで流れてきている。
「先に入る」
直哉は短く言い残し、暖簾をくぐる。
は外で待つように言われ、その場に正座して待機した。
中から聞こえるのは、水音と、湯を使う気配だけ。
何もすることはないはずなのに、背筋は自然と伸びたままだった。
しばらくして、内側から声がする。
「……ちゃん」
呼ばれて、はっと顔を上げる。
「入ってき」
一瞬、ためらいが胸をよぎったが、すぐに立ち上がり、指示通りに足袋だけ脱いで中へ入った。
湯気が視界を覆い、室内は柔らかな熱に満ちている。
「そこ、突っ立っとらんで」
直哉は湯船に浸かったまま、顎で示した。
「背中、凝っとるねん」
それは命令に近い口調だった。
「……はい」
は小さく答える。
「失礼します」
そう言って、湯船の縁に控え、手拭いで水分を拭ってから、そっと直哉の背に手を置いた。
力を入れすぎないように、しかし弱すぎないように。
長年教えられた通りの位置を確かめながら、ゆっくりと指を動かす。
直哉は何も言わず、目を閉じたままその感触を受け入れていた。
低く息を吐き、どこか満足そうに肩の力を抜く。
「ちゃんと出来るみたいやな
無駄な力も入っとらんし」
は返事をせず、ただ黙々と手を動かす。
触れているのは背中だけのはずなのに、距離の近さが否応なく意識にのぼる。
「そうやって」
直哉は目を閉じたまま続ける。
「余計なこと考えんと、言われたことだけしとったらええ」
その言葉に、の指先が一瞬だけ止まり、すぐに動きを取り戻した。
湯気の中で、時間の感覚は曖昧になる。
ただ、教えられた通りに、求められた通りに。
それが、今日からの役目なのだと――
は静かにマッサージを続けていた。