第1章 壱
直哉が自室へ戻るのを見届けたところで、の今日の勤めはようやく終わった。
簡単に食事を済ませ、用意されていた風呂へ向かう。
一日中張りつめていた体は、湯に浸かった瞬間、糸が切れたように力を失った。
(…終わった)
そう思った途端、疲労が遅れて押し寄せる。
広い浴室に、ひとりきり。
静かすぎる空間は、安らぎというよりも、現実から切り離されたような感覚を伴っていた。
湯をすくい、顔を流していると――
背後で、引き戸が静かに開く音がした。
「ちゃん」
低く落ち着いた声。
はっとして振り返ると、そこには直哉が立っていた。
寝るための簡易な着物のまま、ためらいもなく浴室に足を踏み入れている。
その様子があまりに自然で、は思わず身を縮めた。
直哉は淡々と言う。
「少し、確認したいだけや」
は反射的に胸元を押さえ、湯船の中で姿勢を低くした。
だが直哉はそれを咎めるでもなく、湯船の縁に腰を下ろし、視線を向ける。
「…何隠してるん」
その言葉に、の指がわずかに震えた。
胸元を隠していた腕をゆっくりと下ろすと
満足そうに細められた直哉の視線が、肩から背へと流れ、やがて白い胡蝶蘭の刺青に留まる。
湯で火照った肌の上で、普段は目立たない白い文様が、柔らかく浮かび上がっていた。
「…なんそれ、刺青?本物なん?」
驚きというより、興味に近い声音だった。
「我が家の……しきたりです」
は目を伏せて答える。
「成人の時に…好きな花を…」
直哉はしばらく黙って刺青を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「お前は俺のや、隠したり逃げたらあかんよ」
一瞬、指先が肩に触れる。
確かめるような、ほんの短い接触。
「……冷える」
「早よ上がれ」
それだけ言って、直哉は立ち上がる。
最後に一度だけを見下ろし、踵を返した。
障子が閉まり、再び浴室に静けさが戻る。
は湯の中で、しばらく動けずにいた。
胡蝶蘭の刺青が、湯の中で淡く揺れている。
優しくされたわけではない。
けれど、突き放されたわけでもない。
その曖昧さが、かえって胸に重く残った。
ここでは、距離も境界も、
自分で決められるものではない。
は静かに息を吐き、そっと湯をすくった。