第1章 壱
直哉は一瞬、言葉を失ったように目を瞬かせた。
けれどそれもほんのわずかで、すぐにいつもの薄ら笑いが口元に戻る。
「……はは」
低く、喉の奥で鳴らすような笑い。
の言葉を反芻するように、直哉はゆっくりと彼女を見下ろした。
「身の世話、て。子供やあらへんし…
あかんなぁ、そんな顔せんといて。冗談や」
そう言いながらも、視線は彼女にまとわりついて離れない。
昔より少しだけ背が伸びて、けれど伏し目がちなのは変わらない。
直哉の記憶のと、目の前のが、妙に重なって見えた。
「まぁ……そういうことなら」
直哉はくるりと踵を返し、屋敷の奥へ向かって歩き出す。
「立ち話もなんやし、中入ろか」
「ついてきぃ、慣れるまでは、迷うで」
そう言って軽く顎で促す。
それが拒否を許さない合図だと、は理解していた。
数歩遅れて、は後に続く。
廊下に足を踏み入れた瞬間、外とは違う空気が肌にまとわりついた。
静かで、冷たくて、どこか息苦しい。
畳の匂い、障子越しの淡い光。
足音がやけに響くのは、屋敷が広いせいだけではない。
「親父に話通っとるなら早いわ」
直哉は歩きながら、何でもないことのように言った。
「今日からここで過ごすことになる。俺が許可せな外には出れん。部屋も用意させる」
その言葉に、の指先がわずかに強ばる。
「そんな緊張せんでもええって」
振り返らずに、直哉は続けた。
「噛みついたりせえへんし」
冗談めかした口調とは裏腹に、声はどこか低く落ち着いている。
やがて、一つの部屋の前で足が止まった。
直哉は障子に手をかけ、ちらりとだけ振り返る。
「ここから先は、もう“客”やない」
「覚悟決めときや、ちゃん」
そう告げて、障子が静かに開かれる。
は小さく息を吸い、何も言わないまま、その後ろ姿に続いた。
この屋敷の中で、これから何が当たり前になっていくのか――
まだ、その輪郭すら見えないまま。