第1章 壱
朝は、思っていたよりも静かに始まった。
まだ薄暗い時間には目を覚まし、身支度を整える。
屋敷は広く、音が少しでも響けば目立つ。
足音を殺し、決められた順に朝餉の支度に取りかかった。
炊き立ての飯。
汁物は重くならないよう薄めに。
任務に向かう直哉の体に負担をかけないよう、品数は絞りつつ、必要なものだけを揃える。
やがて直哉が現れると、は一歩下がって頭を下げた。
「おはようございます」
直哉は短く鼻を鳴らすだけで、席につく。
眠気はもうなく、顔つきはすでに任務に向かう者のそれだった。
会話はなく
直哉は黙々と食事を口に運び、無駄な時間をかけない。
は少し離れた場所で控え、食べ終わるのを待った。
「行ってくる」
箸を置き、立ち上がる。
その声には、色も何もない。
は手際よく草履を結び
「お気をつけて」
そう告げると、直哉は振り返りもせず屋敷を出ていった。
――そこからは、ひとりの時間だった。
他の女中も庭師も視線も合わせなければ世間話もしない。
洗い物を済ませ、廊下を拭き、武具の手入れをする。
与えられた仕事を、ただ淡々とこなす。
考え事をすると、余計なことまで浮かんでしまうから。
時間はゆっくり流れ、屋敷は再び静けさに包まれる。
日が傾き始めた頃、門の方から気配がして
直哉が戻ったのだと、すぐに分かった。
は手を止め、玄関へ向かう。
いつも通り、下がった位置で待ち、頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
だが――直哉の様子が、今朝と明らかに違った。
足取りが荒く、空気が重い。
視線は鋭く、口元の薄ら笑いもない。
「……ああ」
短く返事をし、草履を脱ぐ動作も雑だった。
「今日は、えらい時間かかったわ」
は何も言わず、ただ次の指示を待つ。
直哉はそのまま廊下を進み、途中で立ち止まった。
「……チッ」
舌打ちひとつ。
それだけで、機嫌が悪いことは十分に伝わる。
「風呂」
理由は告げられない。
説明も、気遣いもない。
は静かに頷いた。
「承知しました」
直哉はそれ以上何も言わず、浴室へと向かう。
背中から伝わる苛立ちに、空気がぴんと張り詰めた。