第3章 愛と義務
「僕がここにいるのは……仁美の“家”のためじゃない。五条家のためでもない。僕だけは、“仁美”との縁だけでここに来てる。」
悟の言葉が湯気に落ちた瞬間、仁美の胸の奥で、消えかけていた灯がふっと明るくなった。
胸の奥で何かが息を吹き返した。
仁美は悟の方をほんの一瞬だけ見る。
その瞳は、さっきまでの濁りが嘘のように透明だった。
震える息のまま、仁美は湯縁の方を指差す。
「……悟くん。うち、あの着物にする。」
悟の視線がそちらへ向けられる。
部屋に飾られた着物の中、黒地に藤の花が静かに咲いていた。
悟はその柄を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「……藤は気高さと折れない心の象徴。黒は……決意の色、仁美が戻るなら、それ以上にふさわしいものは無い。」
悟は立ち上がり、湯に沈む仁美の傍へ膝をつくと、湯をすくってそっと肩へ流す。
乱れた髪を整えるように指が湯面をすべらせる。
「……大丈夫。ちゃんと綺麗にしてあげるから。」