第110章 黒鉄の魚影
「わざわざその酒を使ったカクテルを頼むのも、その似合わない口紅も彼への弔いのつもりでは?」
『……だったら何よ』
「相変わらず優しいものだな、と」
『……』
「つらいなら相手しましょうか?前みたいに」
『必要ないわ』
そう言って残ったカイピリーニャを一気に飲み干した。口に残る甘さにため息をつく。ちらりとバーボンを見たが、静かにグラスを傾けていた。この様子ならこれ以上踏み込んでくる事はないだろう。
ピンガが潜入していなければ、バーボンとの関係はなかったのかもしれない……いや、それはないか。ピンガもバーボンも甘いのに全く違う。
バーボンは……そこに隠されていた本心が何にせよ、救われていたのは確かだ。NOCであるとわかっているにも関わらず、頼ってしまいそうになる。バーボンはそれだけ深いところに居座ってしまった。本当に厄介な男だ。
『同じものを』
もう一杯、カイピリーニャをオーダーした。
ピンガに弱さを見せてしまったら外堀を埋められて逃げられなくなっていたはず。それでも簡単に切り捨てられないほどの存在になっていた。同い年だったし、彼がコードネームを得たのも私より後。その事もあってかあまり気を使う必要はなかった。楽だったし、楽しい事もあった。大切な人間の1人だった。
それなのに泣けないのは……私が自分の意思で彼を見捨てる事を選んだから。助けられたのに、助けなかったから。どこかで安心してしまっているから。
それなら、私が悲しんでいい理由なんてないじゃないか。
新しいグラスに口をつける。カイピリーニャは、これで最後にしよう。そう思いながら今つけている口紅を拭って、いつも使っている色に塗り直した。席を立ってテーブルにお金を置く。
「送りましょうか?」
『いい。それじゃ』
さっさとバーを出て、海の見える場所へ向かった。
冷たい潮風が髪をさらっていく。酒のせいで火照った頬でさえ冷たいと感じるほどだ。
人気のない港からぼーっと海を眺めた。そして、ポケットにあった彼の口紅を海へ投げた。彼が消えたのは海だからそこに返すのがいいだろう。
『……バイバイ』
届く事のない別れの言葉を口にして海に背を向けた。
今回の件が動く前。その時に感じた悪い予感はまたしても当たってしまったらしい。
次もまた……誰か死ぬんだろう。