第110章 黒鉄の魚影
それ以降、お互いに口を開くことはないままホテルについた。
「助かったわ。ありがと」
『ううん、気にしないで』
「……あ、1つ言っておきたいんだけど」
車をおりようとしたベルモットが私に向き直った。
「その口紅は貴女には似合わないわ」
『……ええ』
「それじゃあ、また」
ベルモットは今度こそ車をおりていった。
『はぁ……』
ポケットの中に入れてある口紅を指で撫でる。そして、車を出し行きつけのバーに向かった。
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適当に時間を潰せば、バーに入る頃には日が沈んでいた。それでも私が1番早い客のようだ。カウンターに座り一息つく。
『カイピリーニャを』
マスターにそう告げてポケットの中の口紅を出した。それをテーブルの上に置いてぼんやりと眺める。
ピンガが落としていった口紅。結局返せないまま彼は消えてしまった。それでも捨てるに捨てれない。
数年経っているから外側のデザインこそ変わっているけれど……まさか、私が1番最初にあげた口紅と同じものを使い続けてるとは思っていなかった。
ピンガは流行なんかには結構敏感だった。それにもっと似合う色だってあったかもしれないのに。それでもこの色、このブランドを使い続けた理由……今更聞く事なんてできないけど。
私には似合わないその色をわざわざ付けているのは自己満足にしかならない。己を見捨てた人間に弔いの気持ちを向けられてもいい気はしないだろう。ただ、私自身が助かった気になりたいだけだ。
目の前にカイピリーニャのグラスが置かれた。それと同時に隣に人が座った。
「へぇ、カイピリーニャですか……お好きなんですか?」
『……そうでもないわ』
問いかけてくるバーボンの声にそう返してグラスに口をつけた。やはり少々甘い。
『貴方が来るのは珍しいんじゃない?息抜き?』
「そんなところです。すみません、同じものを」
しばらくしてバーボンの前にもカイピリーニャが置かれた。それを見ながら考える。
少し前までだったらこのままバーボンと一緒にいたんだろう。彼がNOCだと知らないままだったらどれだけ楽だっただろうか。
「なんですか?」
『別に』
再びグラスに口をつけた。
「……彼、とはずいぶん親しかったようですね」
おもむろに問いかけてきたバーボンを睨みつけた。