第69章 残されたもの
『……嘘』
「本当です。どう変わるかは言わないですけど」
ちょっと前までは私よりキスも何も下手だったくせに……いつの間にか上に行かれてしまったようで悔しい。
『もう行く』
「わかりました」
バーボンの家に置きっぱなしだった服に着替える。変装メイクをするほどの物はないから、簡単なメイクと眼鏡、髪は1つに結んだ。着てきた服は紙袋に入れてもらう。
『本当にありがと』
「またいつでも呼んでください。もちろん、どんな理由でも構いませんから」
『ん。じゃあね』
バーボンの家のドアをゆっくり閉める。スマホで行き先までの道を確認して歩き始めた。
アイリッシュに呼ばれた部屋の前。呼び鈴を鳴らしたって出てこないことはわかってるけど、ゆっくり指を伸ばして……
「その部屋の人なら出てったよ」
後ろから急に声がかかって慌てて手を引っ込めた。大家さん……だろうか。ガタイのいい、50代くらいの女がそこにいた。
「知り合いかい?」
『まあ、そんな感じです。あの、いつ……?』
「えっと……確か、7/7の朝だったかねぇ。だいぶ早い時間に連絡が来て、退去させてくれって。家賃1年分前払いされてたんだが、それも返さなくていいからって」
『あ、そうなんですね……わかりました。ありがとうございます』
それだけ言って足早にその場を去った。
そして、2つ目のマンション。一応つけられていないかを確認しながら。
こちらの部屋のことは誰にも話す気はない。アイリッシュがバレていないと言ったから、たぶん本当に誰も知らないはずだ。万が一のために残しておくつもりだ。
教えてもらった部屋の前、鍵を取り出して差し込む。そっと回すとカチャリ、と音がした。
ドアを開けて中へ入る。部屋の中の食う気は少しばかり埃っぽい。
恐る恐る部屋の奥へ足を進める。もう1つの部屋より狭いが、単身で暮らす分には問題ないだろう。物も言ってた通り最低限。
『ん?』
壁際に置かれたデスク。その上は薄らと埃を被っているのに、その上に置かれたパソコンは埃を被っていない。しかも、蓋の上には紙が置かれている。
『これ……』
アイリッシュの字?若干癖のある大きめの字は覚えがあった。
【パソコンは初期化済。家賃は1年分前払いしてある。一段目の書類は確認しておけ】
あの後……ここに来たんだ。これをわざわざ残すために。