第55章 捨て切れない名前
「何なら聞いてもいいですか?」
車が動き出して数分後、バーボンがそう言った。
『……何もないって分かってるでしょ』
窓の外を流れる景色は馴染みのあるものではない。適当に時間を潰してから帰らせてくれるんだと思う。
「嫌がってたのはあれが原因ですか?」
『あんなのいるなんて思わなかったわ。趣味の悪いサプライズよね』
何も答える気はなかったのに反射的に返事をしてしまった。それだけ自分には余裕がないらしい。
『今日のこと忘れて欲しい。見たもの聞いたもの全て』
「……努力はします」
『忘れられなくても、誰かに話したりはしないで。貴方のことだからうっかり口が滑った、なんてことはないでしょうけど』
「信頼されてるんですね、僕」
『それなりにはね……何か口止め料が必要?』
「いりませんよ。大丈夫です。誰にも話しませんから」
話すつもりのなかった過去のことを知られてしまったのは嫌だけど、バーボンじゃなかったらあの場は収まらなかったかもしれないし。
『……一緒にいたのが貴方でよかったわ』
「そう言ってもらえて嬉しいです」
ポツリと漏らした呟きに返事が来るとは思ってなくて、でもバーボンはそういうのも聞き漏らさないだろうと妙に納得もした。
不意に流れていた景色が動きを止めて、膝の上に置いた私の手にバーボンの手が触れ、包み込まれる。その熱が熱い気がするのは、私の手が冷たくなっているせいかもしれない。
「……貴女が落ち着いたら帰りましょうか」
窓の方を向いたまま、ゆっくり目を閉じた。包み込まれた手をぎゅっと握る。でも、私の手が震えているせいでうまく力が入らない。
順調に進んでいると思っていたけど、まだ私は過去を過去として処理しきれていないのかもしれない。過去の名前、過去の仲間……それらを前にして、自分の甘さを知った。あと少しで10年が経つのに正直、全てを捨てられるか自信がない。
私は、何かを失う度に弱くなっているみたいだ。
バーボンの手が垂れた私の髪をそっとすくって、右の耳にかけた。手はすぐに離れていかずに耳の縁をなぞって、頬の線をつたっていく。顎に指がかけられて、その指の促すままに顔をあげる。
視線が絡んで、顔が近づけられる。キスされる、そう頭の中で理解すると同時に唇が重なった。
不思議だ。唇が重なった瞬間から体の震えが治まっていくのだから。