第55章 捨て切れない名前
唇が離れていってしばらく見つめ合う。
「……やっぱり口止め料はもらっておこうと思って」
バーボンは困ったように笑う。再び唇が近づいたけど、触れる直前で動きが止まった。
「拒まないんですか?」
そう言うくせに、私の答えを聞く前に唇を重ねられる。さっきは触れるだけだったのに、舌先が割り込むようにして口内に入ってきた。
ぼんやりとした頭で考える。ジンが知ったらまた機嫌を悪くするんだろうな……言うつもりはないけど、たぶん気づかれる。それでも拒めないのは、このキスが嫌いじゃないからかもしれない。
『……これ以上は駄目』
私の脚に触れようとしていた手を掴んで、私から唇を離す。バーボンは残念そうに、でもあっさりと身を引いて車を発進させた。
「このまま直帰していいですか?」
『……ええ』
「もっと残念がってくれると嬉しいんですけどね」
『悪かったわね』
馴染みのある町並みに戻ってきてゆっくり息を吐く。
「今度またデートしませんか?」
『……しないわよ』
「カップル限定のカフェがあって」
『貴方時々女みたいよね……ベルモットでも誘ったら?』
「彼女のような大女優と一緒に行けるほど豪華なところじゃないんです」
『私みたいな女にはお似合いって?』
思わず鼻で笑った。こういうところがあるから怒りきれないし、まあいっか、と思ってしまう。
『私の買い物に付き合ってくれるならいいわ。そのついでってことで』
「一緒にいる時間増やしてくれるんですね」
『……あくまで買い物がメインだから。そのついでだから』
アジトの駐車場についてすぐにおりようとするが、手を掴まれて振り返った。
『日時は決めたら教えて』
「わかりました」
そう言って手の甲にキスされる。掴んでいる手の力が抜けたのを感じて引抜き、ドアを開けた。
『じゃあ、また』
「ええ。お疲れ様でした」
踵を返し、建物内に続く扉を開けて自室までの道を歩く。
今日の相手はまた何か仕掛けてくるだろうか……そう考えると気が滅入るが、もう今日のようなことは繰り返したくない。また誰かの前であんな姿を見せたくない。
ちゃんと過去のことは清算しないと。もちろんやるなら徹底的に。
そうしたらファーストの名前も完全に捨てられる気がするから。
あのロボットは必ず、私の手で……。