第38章 待っててくれますか?
「エリ…ごめ」
『ごめん万理。私、もう今日は帰るね』
「……分かった。じゃあ駅まで送る」
『大丈夫。駅までの道、覚えてるし それに、ちょっと1人で考えたい事があるの』
そこまで言うと、万理はなんとか頷いてくれた。
例の如く、どうやって家まで帰ったのか記憶は朧げだ。ただ、ずっと万理の事を考えていた。
世の恋人は皆んな、あんな経験を経ているのだろうか。ただ唇と唇を合わせるだけの行為に、心臓が止まりそうになるのだろうか。
それとも、私が万理の事を好き過ぎるから 特別なのだろうか。
家へ帰り着き、私は電子ピアノに向かった。どれだけ胸がぐちゃぐちゃで、息が苦しくて、胸が痛くて、頭がパニックになっていても。私はピアノを弾きさえすれば、音楽に触れさえすれば、平常に戻れる。
そう思っていたのに…
『……なんで、…!!』
どれだけ鍵盤を叩いても、どんな曲を奏でても…私の頭の中は、万理でいっぱいだった。私の胸の中は、万理に占拠されたままだった。
音楽は、いつだって私を落ち着けてくれたのに。音楽以外で自分を満たす私なんて、私じゃない。
万理と出会って、私は変わってしまったのだろうか。
自覚はあった。私の中で、万理の存在がどんどん大きくなっていくのは。
馬鹿みたいにヤキモチを妬いたり、信じられない程ドキドキしたり。万理は、私の中の音楽を押し退けて 日に日に大切な存在になっていた。
ダンスの練習中も、歌のレッスン中も。どこかで万理を想っていた。
もしかして、このまま…。私の中から、音楽は消し去られてしまうのだろうか。音楽より、万理の方が大切になってしまうのだろうか。
アイドルになりたいという夢が、日毎に薄れていくのだろうか。
『っ、…怖い…』
そんな私を、私は受け入れられない。
ちょうどその夜だった。
両親に、引っ越しの話を聞かされたのは。