第36章 どうか俺と
そこに、君は いた。
長椅子の1番端の席。車窓から降り注ぐ 烟る春の木漏れ陽を浴びながら、彼女はそこにいたのだ。
「………」
(あ…そうか)
俺は、彼女に出会う為に 桜の花に呼び止められたのだ。
どうしてそんなふうに思ったのか。それは、彼女の髪についた、ひとひらの花弁のせい。桜の花びらだった。
俯く彼女は 膝の上に鞄を置き、その上に両手を乗せていた。そして、その上で 長くて細い指を遊ばせている。
すぐに分かった。彼女は、頭の中でピアノを弾いているのだと。
真っ白なヘッドフォン。そこから、どんな音楽が流れ出しているのだろう。
長く 揺れる睫毛の下、瞑られた瞼。そこには、どんな瞳の色が隠されているのだろう。
—— タントンっ、トントン タン !
魔法のような、リズムに導かれるように。
ひとひらの花弁に、誘われるように。
俺は信じられないことに、彼女の髪へ手を伸ばしていた。
『———っ!?』
俺の指先が、髪に触れたその刹那。彼女は弾かれるように顔を上げた。そして、その大きな瞳は溢れんばかりに見開かれた。
当然、ピアノを弾いていた指も止まる。そして、俺にはきつい眼差しが向けられた。
驚き、動揺、警戒。そんな色を孕んだ瞳。
「……ぁ、えっ と。違っ」
(何が違うんだ!これじゃ俺、完全に怪しい奴じゃないか!!)
自分でも、どうしてこんな事態に陥ったのか分かっていないのだ。焦って言葉が出てこない。
結局、俺が謝罪の言葉を口にする前に、彼女は鞄を胸の前で抱えて車外へと飛び出して行った。
「………」
声も、聞けなかった。何を演奏していたのかも、分からなかった。
その代わり、俺の手の中には 1枚の花弁だけが残っていた。
気もそぞろで授業を受け、家へと帰る。俺はすぐに、ガラス製のグラスに水を張った。そして、ハンカチに包んだ桜の花びらを そこへ浮かべる。
それを見て、父が言った。
“ 綺麗だな ”
そう。本当に綺麗だった。だから
「—— あまりに綺麗で、触れたくなったんだ」