第36章 どうか俺と
「もう僕の好きな人の話はいいや」
「いや結局してないだろ。千の好きな人の話は」
「さぁ。どうだろうね。
それより、万の方にはないのか?そういう浮いた話は」
「残念ながら、期待に添えるような話は出来ないな」
薄く笑ってそう返す。千は、そうだろうね。とでも言いたげな表情だった。
そして、恐る恐る俺の心の最奥に 手を伸ばす。触れても良いのか しっかりとこちらの反応を窺いながら。
「やっぱり、まだ…忘れられない?」
「忘れるつもりも、ないしな」
さきほども記した通り、俺の最奥には 気安く人に触れて欲しくない物が存在する。
それは、傷と言ってしまえばそうだし。宝物とも言えるような、とにかく難解で、自分でも扱いに困っている代物だ。
しかし、そのパンドラの箱が 俺を俺たらしめているのは間違いない。
かつて千には、その中身を少しだけ見せたことがあるのだ。
「一途とかを通り越して、ちょっと怖い」
「こら千。人の清い思い出に、なんて事言うんだよ」
パンドラの箱の中身には “ ある人物との思い出 ” が詰まっているのだ。
俺が いい歳をして、未だに恋愛に踏み切れないでいるのも、その大切過ぎる中身のせい。
「ふふ、冗談だよ。僕にも、今なら分かるから。
人には、その人生を変えてしまう程の 出会いがあるってこと」
そう。千の言う通りだ。
俺にとっては、あの出会いこそが そうだったように。
「いやほんと、千の言葉だとは思えないな」
「失礼だな。
でもね、僕は優しいから。そんな失礼な事を言う万の為にも、祈っててあげる。
また万が、その人に会える日が 来ますように」
千がほん少し顔を傾けると、長い銀髪が神秘的に揺れた。
もし 目の前にいる元相方が神様だったなら。俺はまた、彼女に会えるのに。なんて…馬鹿な事を考えた。