第29章 《閑話》とあるアイドルプロデューサーの休日
『そろそろ、行きましょうか』
もう夢の時間は終わり。そう、告げられた気がした。そして、私はその言葉に抗う術はないのだ。
こくんと、首を縦にする。それから彼は、私が歩き易いように先導してダンスフロアを抜けた。
『これ、良かったら差し上げます』
「え…いいんですか?」
彼の手に握られていたものは、さきほどの口紅だった。私はゆっくりと、それを持ち上げた。
『ええ。私の使っていたいもので良ければ、ですけど』
「貴方が、使って…?」
『では、私はそろそろ行かないと。
貴女が変わるお手伝いが出来て、光栄でした。
本当の意味での御友人が出来ること、私も願っていますよ』
あぁ、きっと、ここで別れてしまったら、彼とはもう永遠に会えないのだろう。
私の直感が、そう告げていた。
せめて、貴方の名前が知りたい。
振り向いてくれとか、また笑い掛けて欲しいとか、そんな贅沢は言わないと約束するから。
貴方の、名前が知りたい。
「まっ…待って!」
『……はい』
相手の名前を聞く前には、まずは自分から名乗るべきだろう。その後に、改めて問おう。
貴方の名前を、教えてくれませんか?と。
「えっと、あの!私の名前は」
「やっぱり中にいたな!表にあんたのバイクがあったから、もしかしたらと思って入ってみれば…」
『どうしてここに、貴方が』
「それはこっちの台詞だ。お前がクラブ?似合わねえな」
『たまの休みですよ。放っておいて下さい』
私の決死の言葉を遮ったのは、どうやら彼の知り合いらしい。マスクをしているので顔は分からないが、このウェーブがかった銀髪には見覚えがあった。
それに、この特徴的な声も…
「しかも、生意気に女連れてるとか…。もしかして、か、彼女とか?」
銀髪の彼は、私をチロリと見てから 焦った様子で問い詰めた。