第29章 《閑話》とあるアイドルプロデューサーの休日
彼はまたポケットに手を入れた。
今度は何が出るのだろう。というか、彼のポケットは一体どうなっているのだろうか。まるで4次元ポケットだ。
『軽く、顎を上げて下さい』
「えっ」
『唇、薄く開いて』
何と彼は、私の顎を指先ですくった。それと同時に、また周りからは黄色く短い悲鳴が上がる。本来なら、その反応が気になって仕方ないところだろうが…
今は、ハッキリ言ってそれどころではない。思わず目をギュッと閉じて、体を硬直させる。
すると、唇の上をゆっくりと何かを滑った。
『…はい。いいですよ。
やっぱり、口紅を塗ると顔色が良く見えますし、女性的になりますよね』
「あ…口、紅…」
『ベージュピンクは、肌馴染みも良くて、ローズ系などよりも浮きにくいんです。清楚で上品で、貴女にはよく似合うと思いました。
やっぱり、私の見立ては正しかったようです』
そんなふうに、嬉しそうに微笑まれては…。もう、どうとでもしてくれ と言いたくなってしまう。
『……神様は、左利きなのかも』
「え?」
『左利きの神様が、貴女の顔を書いたのかも。そう考えた方が、楽しくないですか?』
「左利きの、神様…。そんなふうに思った事、一度もなかった…」
まるで、映画の中に迷い込んでしまったみたい。
たしか、素敵な紳士が平凡な町娘をどんどん綺麗にしていく、そんな映画があったな…なんて。そんな事をぼんやりと考えながら、目の前の綺麗な男にただ見惚れていた。
「あれ?なんか、王子の隣にいた女の子…変わった?」
「化粧したのかな?なんか垢抜けたね」
「え?違う子じゃないのー?」
そんな周りの声も、私の耳は拾わなかった。視覚も、聴覚も、今はこの人だけの為に使っていたい。
本能が、勝手にそうさせているみたいだった。