第116章 心、重ねて
『だろうね。楽には多分、分からないと思う』
「は?」
『この感覚は、私と千にしか分からないよ』
楽の小さな舌打ちで我に返る。何を馬鹿正直に思ったことをするすると口に出しているのか。それも人様の事務所の廊下で。
恋人に突然こんな言葉を並べられれば、楽でなくとも良い気はしないだろう。なんとか、機嫌を直してもらわないと。それも出来るだけ手短に。
「おい。黙ってないで俺にも分かるように説明し」
『楽。私達は、こんなところで痴話喧嘩をしている場合ではありません』
「……俺達が、何をしてるって?」
『痴話喧嘩ですよ。痴話喧嘩。夫婦やカップルにしか出来ない、あの痴話喧嘩です』
「そ、そうだよな。おう。確かにそんな場合じゃねえよ。……痴話喧嘩か。はは」
楽が御満悦になったところで、私は話を戻す。
『私が千さんに、何かをしてあげられるなんて思いません。でも、気持ちなら痛いくらいに分かるんですよ』
「曲が作れない時の気持ちか?」
『はい。音が1つも降りてこない恐怖。もう、この世から消えてしまいたくなります』
「…大袈裟だろ」
『大袈裟なもんですか』
私は足を止め、すぐ後ろを歩いていた楽に振り返った。瞬きもせずに、自分が味わったことのある感情を彼に伝える。
『私は無宗教ですが、心の底から恐怖するんです。自分は、音楽の神様から見捨てられたのではないだろうかと。
もしもこのまま一生涯、音を生み出せないとしたら…そんな自分は…生きている価値があるのだろうか』
「お、おい…。やめろ」
『そんな状態で生きていかなくてはならないのなら、もういっそのこと……』
「ば…っ、千さんがそんな馬鹿な考え起こすわけな」
—— ぎぃやぁああぁぁーー!!ユキーーー!!
私と楽は、廊下の先から聞こえてきた尋常ではない悲鳴に目を剥く。そして、どちらからともなく駆け出していた。