第112章 幸せでいて
「エリ」
その名前で呼ばれた瞬間。私の頭には、さらに血が上った。思わずカッとなって、という言葉が間違いなくしっくり来る。見えない力に引っ張られるように、大きく腕を振り上げた。
開いた手の平を、最後に働いた理性でなんとか頂上で止める。もしこのタイミングで、彼が謝ってくれたなら。少しでも悪いと思っていることが分かれば。私は、この怒りを彼に振り下ろさなくても済むのだが。
楽は驚くことも、まして謝罪もしなかった。それどころか、力強い目付きで真っ直ぐにこちらを捉えて告げる。
「俺は、謝らない。悪いことをしたとは思ってない」
頭に血が大量に上った影響だろうか。耳の近くで、ブチっと血管の切れる音がした。それと同時に、私は上げていた手を楽の顔目掛けて振り下ろす。それでもなお、彼はこちらから視線を逸らすことはしない。
パン!と、乾いた音がすると思っていたのに。私の手の平は、その途中で静止してしまった。誰かが、私の腕を掴んだのだ。腕の自由を奪われたまま、ゆっくりと後ろを振り返る。
『……龍。離して』
「離さない。だって、見たくないよ。エリが怒りに身を任せて、仲間に暴力振るうところなんて」
悲しげに、龍之介は告げた。こうなってしまっては、力で敵う相手ではない。しかしどうにも、私の中で渦巻く怒りは静まってくれなかった。
すると、天がおもむろに歩み出て首を傾げる。
「ねぇ、龍。じゃあボクは?」
「えっ?」
「エリじゃなくて、ボクならセーフ?
怒りに身を任せて、仲間に暴力を振るっても」
「はっ!!て、天!ちょっと待っ」
龍之介の制止も虚しく、天の拳は楽の鳩尾(みぞおち)にめり込んだ。
ぐっはぁ!という楽の漫画みたいな声がテントに満ちる。腹部を押さえて膝を突く楽を、天は冷たい目で見下ろした。
「顔は避けてあげたから感謝して。もっとも、キミは今日限りでアイドルをやめるみたいだから、そこまで気を回す必要はなかったかな?」