第98章 気付かないふりをするのがマナーでは?
ご所望の場所へ着くなり、彼女はピアノの上蓋を開いた。商売道具でもあるそれを、他人に触らせるのは気が引けた。しかし、思っていたほど嫌とは感じなかったことに、自分で自分に驚いた。
『優しい言葉が、欲しかった?でもごめんね。私には、貴方にどんな言葉をかければ その心を慰められるか分からない』
「…お気遣いなく」
『貴方がいま抱えている悲しみは、きっと貴方だけにしか分からない。もし他人にそれが計り知れたなら、その人は売れっ子占い師か凄腕カウンセラーだよね』
彼女はただの一言も、私の悲しみが理解出来るとは言わなかった。もしもそんな口先だけでものを言われていたならば、私はもうこの人には、一縷の本心も見せることはなかっただろう。
『私は、占い師でもカウンセラーでもなく、1人の作曲家だから』
「…マネージャー、の間違いでは?」
『細かいなぁ。じゃあもう何でも屋でも良いよ』
自称 何でも屋は、指を伸ばしたり折ったりして、手のストレッチを始めていた。その手を見れば分かる。彼女が、ピアノを弾く人間であること。
『悲しみを理解出来なくても、感情を同調出来なくても、私には曲を贈れるから』
その指が、私や、そして桜春樹と重なって見えて…。波を立てないよう注意を払っていた心が、揺らぐ。
「貴女が作った曲なんて聴きたく、ありません。桜さんのことをよく知りもしない貴女が、彼の為に曲を作る?素直に申し上げて、不愉快です」
極力 静かにそう告げて、私は彼女が上げたばかりの鍵盤蓋を閉じようと手を伸ばす。
『あぁ違う。この曲は、桜さんの為に作った曲じゃないよ』
「え…?」
『この歌は、これは、貴方とナギさんの為に作ったもの。ううん、桜さんの死を悼む人全員…かな。
大切な人の死に打ちひしがれて、それでも明日から前を向いて生きていかなくちゃいけない人達に、宛てた歌』
私にはもう、彼女を止めることは出来ない。
ずっと、自分を偽り誤魔化してきたが、本当は心の隅で気付いていた。
彼女の作る曲から、彼の匂いがすること。
私はもう、聴きたいと願ってしまっている。そんな彼女が、自分の為に作ってくれたという歌を。